対戦格闘ゲームという革命。

 8時過ぎに起床。朝食を取る。
 ネットチェック。
 今日のBGMは

ホームラン

ホームラン

 ドフロア―にしてはアシッド色が少ないアルバム。まあ、TB−303&アシッドハウスリバイバルブームが過ぎ去った後の作品だしな。でもドフロア―のはねるようなリズムの組み方は健在。

 その後、近所のゲーセンで麻雀格闘倶楽部3をやるも負ける。やばい。Fighting Jamを対戦でやるも2連続で負け。かなりやばい。関係ないけど、Fighting Jamのキャラデザって蜃気楼さんだよね? 今の塗り方になって、かなり好きになった。

 帰宅して昼食をとり、入浴して部屋の片づけを始めるも、つい、

を全巻読んでしまう。この頃までの高橋葉介さんは神だなー。オタク第二世代的表現の典型例の一つ。*1あと、今回読み返して、自分のセクシュアリティの大きな根源の一つだったことを再確認。出てくるメイン女性キャラが皆、好みだし、魔魅也も可愛いしね。

 Fighting Jamをやっている時にコミケの打ち上げで話したことを思い出したのでメモ。
 
 萌え以前、つまり「もえ」が「燃え」だったころの重要な文化として、ゲームの存在を忘れてはならない。

 ビデオゲーム・ミュージックの最大の特徴は、単にそれがサウンドICを使って作り出されたデジタル・サウンドだということではなく、プレイヤーの意思の介入によって刻々とその姿を変える変容にあるのです。テクノロジー・アートの概念を引っぱり出せば、「参加型のメディア」だということになります。コイン投入時の効果音から始まって、スタートミュージック、そしてメインテーマ、爆発音や効果音、チャレンジング・ステージの音楽などが全て画面状況(ゲームの進行)との関数となって奏でられる。つまり、1回としてまったく同じ進行で音場が形成されない――これがインタラクティブという概念です――特徴があるのです。

 野々村文宏

 ブリコラージュ――初めて『ゼビウス』を見たぼくはレヴィ=ストロースの本を読んだ人なら誰でも知っているこのなつかしい言葉を思い出していた。それにはいくつもの理由がある。ひとつはゼビウス軍のキャラクターがしめす運動が、この言葉のもとになっているブリコレというフランス語の動詞を想起させるからだ。ブリコレはもともと、玉つきや狩猟や馬術に使われた古い言葉で、ボールのはねかえりとか、犬が路に迷い込んでしまうとか、馬が障害物をさけてコースをはずれてしまうといった具合に、方向を定めたコースから逸脱していく偶然的運動をさそうとしている。『ゼビウス』がスクロール・ゲームに持ち込んだものは、まさしく他方向に分散し、迷走していくこのブリコレ的運動の持つ魅力にほかならない。

 ゼビウスの武勲神話 中沢新一

より

 上記の文で両氏が云っている事はゲーム・ミュージックだけでなく、(コンピュータを使わない、囲碁や麻雀などを含めた)ゲームそのものの本質的な要素である。
 ここでゲーム全体とOTAKU文化全体の相互関係について論じ尽くすのは不可能なので、オタク第二世代に決定的な影響を与えた、対戦格闘ゲームについて考えてみたい。

 対戦格闘ゲームの歴史は、カプコンの「ストリートファイターⅡ」から始まった。
 ゲーム史において「ストⅡ」は革命的な作品の一つで、その偉大な業績は多数あるが、ここでは四つの要素を挙げる。
 第一にキャラクターと画面の空間構成システムである。これは厳密には「ストⅡ」の前作、「ストリートファイター」にも見られることだが、モニタの大きさに対するキャラクターの大きさの比率と、キャラクターは完全に横からみた二次元的グラフィックだが、ラスター・スクロールを使用することで背景は擬似的三次元空間になっていることである。
 第二に使用キャラクターが八人から選べることである。それまではせいぜい二タイプから選ぶゲームしかなかったため、これは画期的だった。しかもそれぞれが個性的で魅力的なキャラクターであったことも重要である。
 第三にコマンド技とキャラクター設定の緊密化である。コマンドといえば、それ以前にも「グラディウス」の上・上・下・下・左・右・左・右・B・Aなどがあったが、これらは単に自分のキャラクターが強くなるとか面セレクトができるという程度のもので、キャラクターの個性とは関係がなかった。
 しかし、「ストⅡ」は違った。例えばリュウを使っていて、初めて昇竜拳が使えた時は感動したし、コマンド技を使えるようになるまでそれこそ「修行」したものだ。
 しかも、「ストⅡ」以降、「餓狼伝説」や「バーチャ・ファイター」を始め、多くの格闘ゲームがキャラクターの設定を「ストⅡ」を踏まえて考案され、グラフィックだけでなく、コマンド技などの使用感も踏襲したことの意味は大きい。「ストⅡ」によって「リュウ・ケン使い」とか「ガイル使い」といった用語が生まれ、それ以降のゲームをプレイする時に、最初は「ストⅡ」でよく使っていたキャラクターをまずやってみるという現象が起きたからだ。
 また、「ストⅡ」は単にキャラクターの外見や内面的な設定による感情移入だけでなく、操作体系による感情移入を促した点でシューティング・ゲームやRPG、アドベンチャー・ゲームなどとは大きく異なる。
 このような操作体系のデータ・ベース化は、明らかに対戦格闘ゲーム空間で培われた部分が決定的に大きいということを、当時をリアルタイムで体験した者として明言しておく。
 第四にゲームセンターをコミュニケーションの場としたことである。ゲーム・センターには常連などが落書きをしたり、コミュニケーションをはかるためのノートや、「ゼビウス」や「ドルアーガの塔」を攻略するために、他人のプレイを後ろで眺めるなど、「ストⅡ」以前にもゲームセンターでのコミュニケーションは存在した。
 しかし、「ストⅡ」はゲームのプレイそれ自体がコミュニケーションとなり、常連同士で「あいつのリュウは強い」とか「あいつはガイルで待ちばかりやるから卑怯だ」などという意識が生まれたことは、それ以前のゲームセンターでのコミュニケーションとは、明らかに異質のものだった。

 このようなゲームそれ自体のシステムとプレイヤー間のコミュニケーションの在り方はゲームの歴史において革命的なものだったし、OTAKUの想像力に決定的な影響を与えている。

 この観点から考えると、ノベル・ゲームは小説という単線的なメディアとゲームという参加型・相互影響型メディアの中間点にあるといえる。ノベル・ゲームは、少なくともシステム面においては、それ以前にあったアドベンチャー・ゲームやゲーム・ブックの延長線上にあり、有限個の組み合わせによる「単線的な物語」であるが、ゲームの本質性は無限の可能性を持つ出来事性にあるのだから。

 筆者は萌え空間/ギャルゲー運動以前に燃え空間/格ゲー運動があったと考えている。燃え空間/格ゲー運動は九〇年に始まり、九五年に終わった。それと入れ替わるように萌え空間/ギャルゲー運動は九五年に始まり二〇〇四年に終わった――かなり大雑把には、このようにゲーム史を捉えることは可能なのではないか。*2

 上記のことは、筆者の同世代のオタクの多くには実感としてあることだと思う。しかしこれが筆者個人の実感に過ぎない可能性もある。その点については、読者諸賢の批判を乞う次第である。また、上記の内容と同様の記述が既に発表されていたら、教えていただきたい。
 また、ゲーム(特に「バーチャ・ファイター」シリーズや「リッジ・レーサー」シリーズ)とクラブ文化(特にテクノ・ミュージック)との相互影響による九〇年代前半のムーブメントについても後日、検討してみたい。

*1:高橋さん自身はオタク第一世代だけど、「夢幻紳士」という作品自体は第二世代空間に入ると思う。

*2:もちろんクロスオーバーしている部分はあるし、それぞれの開始期、終焉期はもっと厳密な調査を行う必要があるが。