昨日、

げんしけん(1) (アフタヌーンKC)

げんしけん(1) (アフタヌーンKC)

を読み返したのだが、id:hhosono:20050114#p4における「第二に「究極超人あ〜る」は「外道照身霊波光線」とか「バーラダギバーラダギ」など、過去のアニメ、マンガ、特撮などのパロディに満ちているが、「げんしけん」にはそれがなく、代わりに「くじ引きアンバランス」という架空の作品を設定し、さらに作品内キャラクタ―がそれに対するレヴューをするというメタフィクショナルな構造を持つことである」という記述が決定的に間違えていることに気づいた。「げんしけん」もOTAKU文化の引用、パロディに満ちているからだ。

大体 現視研
てのはね

10年くらい前に
マンガ・アニメ・
ゲーム
その垣根を越えた
総合的なサークル
としてできたんだ

でも逆に
どうゆう活動を
するのかボヤケ
ちゃったんだな

それにそんなの
今はどこのサークルも
ボーダレスだろ?

げんしけん』1巻132ページより

 「げんしけん」と「究極超人あ〜る」の差異は、「究極超人あ〜る」が光画部という名の文化系部活の有様をおたく的な視点で描いた作品であることに対して、「げんしけん」が「現代視覚研究会」という、アニメ、マンガ、ゲームを総合的にとらえたオタク部をオタク的な視点で描いていること、と捉えなおしたとき、「げんしけん」の物語世界が2001年または2002年から始まっているとして*1、上掲の原口の科白は示唆に富んでいる。
 なぜなら、80年代後半から角川書店大塚英志らに代表されるような、それまでにない形態のメディア・ミックスが展開されたことを受けてげんしけんは発足されたと考えられるからだ。
 俗に「角川商法」とも呼ばれる角川書店のメディア戦略は、OTAKU文化に決定的な影響を与えた。それは、アニメ、マンガ、ゲームといったメディアがキャラクターや各作品世界を殻に多層的に展開することで、各作品の内閉的自立性を高めたからだ。
 東浩紀さんの提唱する、データベース消費、あるいはメタリアル・フィクションという概念はこうした現象の下に構想されたものだろう。
 「げんしけん」は、OTAKU文化におけるそうした変化を受けて発足しながら、実質的な活動を何もしてこなかった現代視覚研究会が、笹原のOTAKUとしての自己発見とパロディ同人誌を作ろうという決意を描くことで、態度としてのオタクから二次創作という極めてOTAKU的な活動への変化(シニカルな消費から二次創作=ファン・アートという「もの作り」へ)を物語化しており、ある種のビルドゥングス・ロマンといえなくもない。*2

*1:単行本1巻の発売が2002年。

*2:二次創作をしなければ、OTAKUとしてダメだ、ということを言いたいのではない。