まんが・アニメリアリズムとキャラ。

美少女戦士セーラームーン(1) [DVD]

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を観る。放映当時も観ていたけど、面白い。どうやら男性おたくには受けが悪かったようだが、セーラー戦士がモデル系idoruが多かったことが要因として大きいと思う。モデル系idoruだと女性には同一化しやすいが、男性おたくには欲望の対象にはしづらいからだ。
 また、実写という点も見逃せない。テレビで放映するという時点でモニタというフレームに回収されてしまい、アニメ独特のリアリティとの差異が強調されてしまうのだろう。ミュージカルも実写ではあるが、テレビというメディアを介さず、劇場で観るという点で生身の人間がセーラー戦士を演じることの違和感がなくなり、現前性があるからこそ素朴にリアリティを感じられたのではないか。*1それに加えて、アイドル・コンサート的なものとして機能している部分もあっただろうし。
 いずれにしても本作を見ていると、アニメ、マンガ、ゲームのキャラクターの魅力がどのように形成され、機能しているかがよく解る。伊藤剛id:goito-mineral)さんの
テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

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の表現を借りれば、アニメ版セーラームーンは線の集合体がキャラとしてのリアリティを獲得する過程と、人体のリアリティがキャラのリアリティに変換される過程の差異が明瞭になるからだ。
 本作を観ていて、マンガ、アニメ、ゲームというメディアが、平凡なキャラクターさえも魅力的なものにしてしまうことは本当に奇妙なことだと改めて思った。どういうことか。
 セーラームーンシリーズにおいて、主人公の月野うさぎはごく普通の女の子として設定されている。しかし、私たちにはうさぎは非常に魅力的に見える。それは性格や行動などの確定記述以前に、外見からして既に可愛いのだ。作品世界でアイドルである愛野美奈子とうさぎを同じ髪型、同じ服装にした場合、私達はどちらが可愛いかという判定以前に、二者の判別が不能になる。これは作者が描き分けなかった/られなかったという問題ではない。ほとんどあらゆるマンガ、アニメ、ゲームにおいて、ごく普通の人間でありながら主人公の位置におかれたキャラクターは、私たちには魅力的に見えてしまうのだ。そして主人公だけでなく、ある程度キャラ/キャラクターが立った登場人物は全て何らかの魅力を備えている。*2
 従来、この問題は絵柄という観点からのみ考えられてきた。
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が素晴らしいのは「このキャラクターが魅力的なのはこのキャラクターが魅力的だからだ」といったトートロジーに陥らず、絵柄という観点とは異なる、新たな視点を提供したところにある。
 
 そういえば、杉本彩さんの魅力を完全に自覚するきっかけになったのも本作。本作以降、彩さまが曽我町子さんばりに特撮の女王になることを祈ったのだが、そうはならないようで残念。

*1:着ぐるみに萌えるにはある種の訓練と素養が必要だし。

*2:場合によっては、初期手塚作品に対してしばしば言われるように、モブでさえも魅力的に見える場合もある。