アニメ、マンガにおける戦い。

出来の違いが判りづらいね。


id:otokinokiさんがid:otokinoki:20051108で『るろうに剣心』と『新世紀エヴァンゲリオン』について比較考察をしている。これを読むと、id:hhosono:20041124#p3についてid:otokinokiさんがコメントをくれた理由が解る。こういう問題意識を持っていたのかと。
 ぼくは社会反映論にほとんど興味がないが、上記二作品が「戦後の枠組みの崩壊と新体制の模索」という社会背景の中から生まれた、と考えるのは概ね正しいと思う。ポストモダニズムの言葉を借りれば、大きな物語の失墜以降の社会というわけだ。しかし同時にこれだけでは意味がないとも思う。任意の作品から世相の何らかの反映を見出すことは事後的には何時でも/どれでも可能だからだ。問題は、何故、庵野さんと和月さんが社会状況からあのような作品を描き得たかだろう。
 さて、id:otokinokiさんは「不殺」をキーワードに和月論を論じている。和月論を論じる上で、「エヴァ」と比較するのは有意義だと思うが、エヴァは「不殺」をテーマとしていないのではないか?

1)主人公は大きなトラウマを抱えており、基本的に戦うことを忌避している。
(中略)
2)けれども主人公の唯一のアイデンティティは「戦いの強さ」であると周囲からは考えられている。

 思うに、「エヴァ」は東さんが

郵便的不安たち# (朝日文庫)

郵便的不安たち# (朝日文庫)

以降、繰り返し主張しているように「大きな物語の崩壊≒象徴界の機能不全」の物語であり、(広義における)アダルト・チルドレンである碇シンジが、社会性の獲得=の承認について苦悩しながら自己の存在証明を獲得しようと模索する物語ではないか。だとしたら、シンジがエヴァに乗る理由は戦いという社会的営為よりも、救済という「世界」に関わる営為といえる。そしておそらく、物語冒頭では「ぼくが『世界』を救う話」だったのが、その結末において「『世界』がぼくを救ってくれる話」に変わっていったことが、良くも悪くも「エヴァ」が大きな反響を得た要因の一つだろう。
 碇シンジ緋村剣心の相違点について、社会と世界の差異という観点からもう一つ指摘しておく。
 剣心のトラウマは(OTAKU系文化に限らず)90年代に流行した、トラウマブームの一モデルとして考えられる。「剣心が不殺するに至った理由は○×という過去があったからだ」と形で記述できるからだ。しかし、シンジの過去はトラウマというレベルで回収できるものではないように思う。
 90年代に、戦いをモチーフにしたマンガが大きく変容したのは事実だ。それらを「不殺」という観点から考えるのは重要だとも思う。しかし、「不殺」がそれほど大きなモチーフであるかという点は大いに疑問に思う。
 「不殺」というテーマについて考える場合、は外せない。また、90年代以降のマンガやアニメにおける「戦い」の変化を考える上では、
魔法先生ネギま!(1) (講談社コミックス)

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も外せない。前者は新しい悪の在り方を描いていると言う点において、後者は「燃え」から「萌え」への変化を作品化しているという点において。