id:hhosono:20051108#1131456037の記述について、栖哩さん(id:unterwelt)からトラックバックをいただいた。有難い。ので、レスを。

http://d.hatena.ne.jp/unterwelt/20051110

私はここ10年でメジャーデビューした日本のロックバンドを聞いて音楽に嵌ったので、こういう風に書かれると腹が立ってくるんですよ。誰だって自分の好きなものは貶されたくないでしょう。

 ぼくは自分の好きなものを貶されてもまったく腹が立ちません。*1しかし、ネットにおいて、表現や個人などに対して否定的な文章は書くまいということは常々思っていたにも関わらず、やはりそういうことを書いてしまった自分の無神経さに反省するとともに栖哩さんをはじめ、件の記述に立腹された方々に謝罪します。

 で、疑問なのは「オリジナル信仰はない」と言っているのに「劣化コピーは必要ない」というのがよく分かんないのですが。それはオリジナル信仰とどう違うのでしょうか。何らかのオリジナリティを求めてる(でなければ、「劣化コピー」とか言えないでしょう)時点で、オリジナル信仰を持っているようなものだ、と個人的には感じられるのですが。

 まず、瑣末なことですが、ぼくは「かなりオリジナル信仰ない」と書いていて、つまりは多少はあります。
 ぼくが表現に求めることは――id:hhosono:20041124#p3で書いたことにも多少関係があるのですが――特殊性としてのオリジナリティではなく、表現の強度=感染力です。だから例えばぼくが大好きな筋肉少女帯と全く同じ水準でのコピーバンドが存在するとしたら、ぼくはそのバンドを好きになります。劣化コピーというのは、ぼくが好きな表現が持つ強度に似て非なるもの、その強度が劣るもののことです。

 それ以前に「劣化コピー」というのが何と比較して劣化コピーなのかが分からないというのもあります。ぱっと思いつくのは洋楽との比較*1ですが、それを言ったら「オアシスはビートルズ劣化コピー」とか際限ない話になっていく気がしますし。

 この指摘はかなりクリティカルかつラディカルなもので、こういうことを指摘してくださったことはかなりう嬉しく思います。
 栖哩さんの仰るとおり、あらゆる表現は過去の表現に大きく影響を受けており、アウトサイダー・アートのような特殊例においても、その作者の体験が反映している以上、純粋な「創作物」というものはありえません。
 ぼくが表現に対して価値基準を考えるとき、表現の歴史的変遷はほとんど考慮に入れていません。ぼくはあくまで「自分が享受した順番」を基に考えます。
 例えば、ぼくは、中学生の時にsex pistolsとYMOを聴いて音楽の素晴らしさを初めて自覚しました。sex pistolsにとってのニューヨーク・パンク、YMOにとってのマーティン・デニージョルジオ・モロダーなど、上記の二つのバンドも歴史的水準から見れば多くのルーツを持ちます。
 しかし、ぼくは音楽それ自体を楽しんでいる時、そうした歴史的影響関係はまったく考慮に入れません。「オレ歴史」では、パンク・ミュージックの始まりはsex pistolsであり、テクノ・ポップはYMOということになります。
 80年代までとは異なり、90年代以降、音楽は機材(サンプリングなど)と流通(復刻版の量的拡大)の両面において歴史が集団的、社会的水準で共有されにくくなりました。*2
 そうだとしたら、音楽業界に携わる人以外、つまり受け手は個的体験としての音楽史を重視(絶対視ではなく)した方が良いと思うのです。

 というか、音楽はそれ自体で聞かれるものではないと思います。もちろんそれが音楽としてだけ聞くのが理想ですが、その時代の感覚とか自分の感情とかそういうものも作用するでしょうに。

 このことに関しては、ぼく自身が単独で証明できるものではないのですが、私的感覚においては、栖哩さんの仰る「その時代の感覚とか自分の感情」が音楽に作用することはありません。というのは、過去において良いと思った作品をその後、嫌いになることはあります。そして更にその後、また良いと思うこともあります。しかし、音楽を聴いている全てのその瞬間において、ぼくは過去の記憶を想起していません。というか、そういうものを想起させるようなものには興味がないのです。
 ただ、逆に「○年前にあんなことをしたな、そういえばあの時はあのアルバムが発売された時だったな」というように、生活史から音楽体験を想起することはあります。

なんといいますか「なかったことにしたい言説」、正確には「ないということにしてしまおう言説」みたいな感じが、下種の勘繰りですけどするのです。そりゃ、言う方は気楽だし、自分たちの青春というか好きなものを美化できるでしょうが、言われた方としては堪ったものではないです。そういうのも抑圧というのではないのでしょうか?

 全ての人間は変化します。故に、人は齢を重ねると、感覚や考え方の枠組みは変化します。それはある面では成長、深化といえますが、別の面では鈍化です。だからぼくがくるりスーパーカーポリシックスなどになんの輝きも見出せないのも、鈍化とも言えると思います。
 ぼくは一部の新人類世代の人々などが言っている「世代間抑圧が新たな創造性を生む」という言説にはまったく同意できないので、世代論による後発世代への抑圧はできる限り、したいとは思っていません。ですから、ぼくの記述に対して抑圧があるとしたら、それは無意識によるものであり、そのことは指摘されない限り気がつかないので、指摘してくださった栖哩さんには感謝します。と同時に「世の中、色んな考え方の人がいるよね」というのが、ぼくの生きる上での大きな前提条件なので、予めそうした過失を徹底的に想定することもしません。それをやると何もできなくなりますから。

 そんな個人の感想に憤慨することなんてないと思うのですが(というか私怨だよなこれ)、こればかりは書かないと自分の気が収まらなかったので。

 基本的にぼくは、自分の行動に対する全ての反応に自覚的に対応しようと心がけています。現に、ぼくのブログへの匿名での否定的な書き込みも消去せず、かつ対応しています。まして、栖哩さんは赤の他人であるぼくに対しての礼儀を保たれているし、栖哩の文章には共感はできませんが、理解はできました。それにぼくにとって有意義な指摘が数多くあったため、こうしてレスをさせていただきました。よって、ぼく個人としては、憤慨、私怨、大いに結構だと思います。

*1:行政などにおいて、不当に存在自体が禁じられることには腹が立ちますが。

*2:このことは東浩紀さんの

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

椹木野衣さんの
シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)

シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)

などが参考になります。