悪の名、それは・・・。

を読む。
 ぼくがいとうせいこうさんの(小説の)熱心な読者であり、かつ中村雄二郎さんの著作をさほど読んでいないことの影響があるのだろうが、本書を読んでいとうさんの歯切れの良さに対して中村さんが口ごもっているように思った。

 これまで二度ほどお会いできる僥倖があったものの、すべてがトークセッションめいた舞台の上で、このように親密にお話しすることはかないませんでした。
(中略)
トークセッションの前後、むしろ話さなければ不自然だという距離にいても僕はむっつり黙り込んでいたというわけです。
(中略)
 けれど、今回、メールで対談すると言う最も負い目を感じずにすむ話し合い方を得ました。(中略)ですから、僕は慎重かつのびのびと会話を進めていきたいと思います。
(上掲書より引用)

と冒頭にいとうさんは書いているが、本書ではまるで逆転しているのだ。もっともこれは、中村さんが学者という、思いつきだけでなく論拠を丹念に集め、誤解を招くような表現を慎重に排除しなければならない立場にあることと、TV番組の司会、ラッパー、小説家、エッセイスト、果ては狂言の脚本執筆など、多岐に渡ってその才能を見せ、かつその発想自体が最大の強みである(まさに80年代の申し子のような)いとうさんの立場の違いによるところも大きい。
 ぼくが中村さんの本書での発言について歯がゆい思いをするのは、例えば「悪」についてのこのようなやりとりである。

中村さんが

術語集〈2〉 (岩波新書)

術語集〈2〉 (岩波新書)

で示したのは、西洋の存在論のなかで「悪が存在の欠如」としてとらえられてきたこと、「悪とは関係の解体である」というスピノザの定義でした。
 「存在の欠如」、存在すべからざるものを悪とする考え方は、哲学とは離れた意味で近代日本を覆っています。悪はあり得てはならないという思想が、いつの間にか悪はないという前提を生んでしまっており、おかげで「あっても無視しておこう」という無気力感がただよっているのです。そのなかで、無菌状態がむしろ免疫異常を引き起こし、花粉症を発生させるようにして、ないはずの悪が唐突に散発的に非意味的に出現してきている時代。それが現代であるような気がしてなりません。
 やはり『術語集Ⅱ』にお書きになっていた日本中世の悪党衆には、少なくとも社会から与えられた意味がありました。本人たちはそうでなくても、社会がその悪をゆるやかに規定し、自己のなかに組み込んで生きていたのです。
 それならば、今必要なのはやはり、悪に意味を与えてやることではないでしょうか。あるいは、悪に空間を与えてやること。名前を与えてやること。
 オウムに魅惑的な力があったとすれば、ひとつには大量無差別殺人に「ポア」という名を与えたからです。そこで悪は意味づけられ、居場所を得てしまった。ないことになっているものが積極的な意味をもって現れたのです、また、「学校殺死の酒鬼薔薇聖斗」はそれこそ名前そのものが存在でした。
 これらの事件に関して、僕には「浮遊する悪が暗闇から名ざされた」イメージがあります。とすれば、明るい場所から悪を名ざし直さなければならないと思うのです。
(同掲書、強調は引用者による)

といういとうさんの発言に対して、中村さんはいとうさんの花粉症を用いた比喩に同意しつつ、

 ただ、あなたが悪に「適切な意味と名を与えよ」と言っているのには、奇異な感じを受けました。とくに、中世のエネルギーに充ちた無頼の徒たる「悪党」の場合と、教団に好都合なように殺人を正当化したオウムの「ポア」や、神戸の少年Aの自称「酒鬼薔薇聖斗」との場合には、同じく与えられた「名前」といっても、リアリティーあるいは実体とのかかわり方が大分違うからです。しかし、よく考えてみたら、この違いは、リアリティーがいわば大地と身体に根ざしていた中世の場合と、リアリティーがヴァーチャル化した現代との違いなのですね。
(中略)
 あなたの言われる「悪を暗闇から引っぱり出し、光に当てなければならない」「暗黒の世界に<同化>しようとする悪を<異化>し、新しい姿を出現させなければならない」ということには、私も賛成なのです。しかし実は、それこそ、単なる命名や意味の付与にとどまらずに、ハイデガーの言う「アレテイア」(覆いを取り除くこと=真相の顕在化」でなくてはならない、と思うのです。
(同掲書、強調は引用者による)

 と返答している。前半のいとうさんの発言の強調部分を読めば明らかだと思うのだが、いとうさんは社会から名ざされた「悪党」と社会の中の準拠集団であるオウム内部で名ざされた「ポア」や自分自身で作り出した名前である「酒鬼薔薇聖斗」を適切に区分している。ハイデガーの概念を持ち出して中村さんが言ったことは既にいとうさんが言っているのである。
 また、その差異を「リアリティーがいわば大地と身体に根ざしていた中世の場合と、リアリティーがヴァーチャル化した現代との違い」とするのは、あまりに近代的、というかおっさん的である。
 本書はインターネットを使って行われた議論を書籍化したものである。
http://www.iwanami.co.jp/agora/
 そのため、書籍版には文中の用語解説を補強する資料などがCD-ROMとして付属している。東浩紀さんの『『動物化するポストモダン』とその後――サブカルチャーと情報社会』と同じく、インターネットという歴史の浅い媒体で、従来のメディアではできないことを模索する試みとしても面白い。