また思い付いちゃった。

 言葉と現実は全くの無関係ではないが、同一のものでは決してない。あらゆる理論や言説は、極めて乱暴にいえば「よく出来た嘘」だ。言葉はモノに従属しているわけではない。モノをモノとして人間の都合よく存在させるために、言葉は存在しているのだ。*1ある物事に対する説明体系が複数ある場合、様々な状況をそれらを仮説としてあてはめ、もっとも破綻なく全体を記述でき、それによって有用な思想や理論が導き出せるものを採用すれば良い。
 以上のような立場の下に、オタク系文化を説明する際に、東さんの理論(物語からデータベースへ)に基づく考察と、江戸文化との類似性を踏まえた考察のどちらが有効なのか考えた時、ぼくはやはり東さんの理論の方が整合性が高いと思う。何故なら95年まで(=萌え以前)のオタク系文化は、確かに架空の歴史/世界を綿密に構築することに熱狂し、先行作品からの引用の巧拙で優劣を競うものが多かった。言い換えれば時系列的な(=物語的な)作品が優勢だったわけで、その意味では「見立て」や「趣向」に通じるものはある。だからこの時代までは江戸文化との類似性を指摘することはそれなりに有効だ。しかし、その点については東さんも同じように考えており、対立点はないのである。
 それに引き換え、95年より後(=萌え以降)は「見立て」や「趣向」では説明のつかない作品が支配的になってきた。ギャルゲーのほとんどや「あずまんが大王」や「ほしのこえ」を我々が観賞する時、「いやー、ここの設定は矛盾があるね」とか「この台詞はあの特撮映画をパクったと見た! 作者はあの作品が好きに違いない」などとは云わないと思う。何故なら、見立てや趣向は元ネタをそのまま再現するのではなく、微妙にずらすことで成立し、そのズレの方向性を楽しむものだが、*2萌え系文化はあまりに先行作品の要素をそのまま持ってきているので、見立てや趣向による鑑賞法ではとても楽しめたものではないからだ。
 このように、萌え系作品を否定する人は、見立てと趣向による鑑賞法が骨の随までしみ込んだ、所謂第1〜2世代のオタクが多く、素直に楽しめる人は、そもそもオタク的教養にもそうした鑑賞法に興味のない、所謂第3世代のオタクが多い。
 ここまでは、萌え系文化が見立てと趣向と相容れない理由について述べた。これからはデータベース理論が萌え系作品を記述するのに如何に都合が良いか考えてみよう。
 まず、萌え要素という言葉がある。これは外見や言葉遣いや性格などを要素に分解し、それに性的、恋愛的な感情を付与したものだといえる。これまで考えてきたとおり、萌えている主体が萌え系作品/萌えキャラ/萌え要素について、その起源を問わず、それらを極めて類型的かつ抽象的に認識し、整理分類しているとしたら、それを象徴的に表す言葉として「データベース」より適切なものは存在しないのではないか。また、キャラクターの外見、内面、行動を記述する際に類型化し、単純化した萌え要素を配列することで「作品」を作ること、そしてそれらを記号的に消費するという象徴交換もやはり「データベース」的操作と称する以外に如何なる方途が我々に残されているだろうか。

 ぼくは上記の文章を書くことで、東さんを否定する人々が、何故、萌えに対しても否定的な態度をとるのかをようやく理解した。これはおそろしく根深い問題である。*3

*1:id:hhosono:20031008の「「もえ(萌え/燃え)とは何か?」という問い。」でも似たような事を書いてます。言語の謎について面白いと興味がある人は池上嘉彦記号論への招待』岩波新書ISBN:4004202582)が解り易くてお薦めなので未読の方は是非。

*2:横溝正史さんの傑作「獄門島」は見立て殺人が行われる。松尾芭蕉とその弟子、宝井其角が詠んだ三つの俳句、「鶯の身を逆さまに初音かな」、「むざんやな胄の下のきりぎりす」、「一つ家に遊女も寝たり萩と月」を彷佛させる殺人が行われるのだが、「鶯の〜」と「むざんやな〜」の殺人では俳句に詠まれた事物それ自体は使われず、それを他のものに代替させているのに対して、「一つ家〜」の殺人では一ツ家と萩そのものが使われているので、見立てとしての完成度は低い。

*3:そしてまたもフロイトの偉大さを思い知りましたとさ。