最近好きなゲーム。

 よく行くレンタルビデオ屋の近くにゲーセンがあって、ビデオを借り/返しにいくついでにたまにフラリと立ち寄り、1〜2ゲームやることがある。
 初めてコンピュータ・ゲームに出会ったのは確か幼稚園の頃で、記憶にあるのは平安京エイリアンのパチモンだったりする。それ以来、ファミコンアーケードゲームなど、大学生の頃まではアホほどやりまくった。しかしぼくがゲーム文化についていけたのは格闘ゲームまでで、それも「THE KING OF FIGHTERS '94」くらいまでだったような気がする。それ以降は徐々にゲームをやらなくなり、学生を卒業してからは、ゲームに対する関心は本当に減った。
 だからぼくの同人文化への関心も格闘ゲーム系、つまりCAPCOMSNKなどの全盛期への志向が未だに強い。*1そんなわけで、たまにゲーセンに行っても、遊ぶのはCAPCOMSNK系の格闘ゲームか、「Mr.Driller」くらいなものだったりする。
 しかし最近、上記のゲーム以外でけっこうハマっているものがある。サミー工業*2の「Dolphin Blue」がそれだ。

 (ここから唐突に文体変更)いやしかしこのゲームってば熱いですよマジでマジで。だって「大鉄十字帝国」とか「囚われのお姫さま」とか「海洋世界」とかマジでいいね。メカデザインとかも相当好き。これって90年前後のマンガやアニメで流行った設定を今のデザインセンスで処理した良い見本だと思う。ゲームシステムもそんな感じだよね。

 (文体を元に戻す)設定を見てもらえば解ると思うが、このゲームはアニメ「未来少年コナン」に代表される70〜80年代のマンガ/アニメに影響を受けて製作された、アニメ「不思議の海のナディア」に代表される90年前後のマンガ/アニメのテイストを色濃く残している。かつて繁栄を極めたのに今は没落した文明、大海原での冒険、帝国軍に立ち向かう少年少女たち……。
 上記に列挙した要素は、それだけを言語として取り出してみると、90年前後だけでなく、70〜80年代でも、そして現代でもマンガやアニメでよくあるものだ。しかし、例えば「コナン」と「ナディア」では、明らかに何かが違う。その違いは巧く表現できないのだが、ぼくには「コナン」よりも「ナディア」の方がアニメ*3としての完成度が高いように思えるのだ。
 というのは「ナディア」は、物心ついた時からアニメ/マンガを浴びるようにして育ってきたオタク第一世代の中でも飛び抜けたセンスを持った人々の集団であるGAINAXが作ったアニメで、当然、過去のアニメやマンガの美味しいところを抽出して作っているので、アニメ/マンガ表現としての快楽度は「コナン」よりも「ナディア」の方が高いからだ。
 「コナン」は宮崎駿さんの出世作で、「残された人々」という児童文学作品を基にしている。*4原作が文学であるというだけでなく、「コナン」は製作の過程で「アニメ」や「マンガ」の参照量は明らかに「ナディア」より少ない。だから「アニメ」としての快楽度は少ないが「アニメ」表現を確立するための苦心惨憺の跡があり、その分、セオリーに縛られない物語としての自由さがあるともいえる。
 ここからはかなりいい加減な仮説だが、日本のアニメーションの歴史が50〜60年程あるとして*5、70年代頃までの作り手は、アニメを作る時に、それまでのアニメ作品を参照/引用項としてアニメを作ってこなかったが、80〜90年頃になると、アニメを観て育った世代が作り手に回ることで、「自分がかつて観たアニメのあのシーンがやりたい」という欲望からアニメが作られるようになり、アニメの自己言及化が始まったのではないだろうか。言い換えれば、それ以前のアニメ作家達は既存のアニメを参照/引用することに抵抗していたが、80〜90年頃のアニメーター達は、アニメを作る時にアニメを参照/引用することに戸惑いや引け目がなくなってきていた(完全にないわけではないが、少なくとも彼らより上の世代の作家たちより露骨な引用をすることに抵抗が薄い)のではないか。
 もし、上記の仮説が正しいとすれば、その結果、アニメ(とマンガとゲーム)がデータベース化/動物化したこと、そして現実とはかけ離れているが、かけ離れているが故に独特のリアリティを持つこと*6も納得できる。
 アニメ/マンガ/ゲームは70年代以降、その圧倒的な快楽度によって、作り手だけでなく、受け手さえもそのアーカイブの整備に貢献させ、それによってジャンルの内部に「もう一つの現実」を作り上げていった。*7そして、70年代頃に始まったアーカイブ化は95年頃に一応の完成を遂げ、データベースに変貌を遂げたのではないだろうか。
 大衆文化が何時の時代においても、引用で出来ている、というのは、まあ間違いないことだろう。ただ、それを強弁するのはあまり意味がない。というのは、あらゆるメディアは、それを支える形式とテクノロジー、そしてそれを受け入れる社会の構造と不可分だからだ。例えば映画というメディアにおいても、チャップリンの時代と現在では映画を成立させるための技術も受容の形態も明らかに違う。その差異に目を向けず、同一点ばかり強調するのは、「人間と猿は二足歩行をするから同じものだ」と主張するようなものではないだろうか。20世紀に入ってからの科学技術の進歩の速度は飛躍的に上昇した。私達は、その事実を忘れるべきではない。
 また、20世紀に入って――特に第二次世界大戦後は――「子供」という存在の意味や、社会における「子供」の扱われ方がそれ以前と大きく異なることや、「性」の問題意識が大きく変化したことも、アニメ/マンガ/ゲームについて考える上で見逃せない問題である。
 ぼくは浅学非才であるため、不勉強でよく知らないのだが、江戸時代の町人文化は、大人の趣味人によって担われていたのではないだろうか。だとしたら、日本におけるアニメ/マンガ/ゲームが思春期の青少年に果たす役割を考えると、江戸時代の黄表紙と現在のライトノベルを接続させたり、アニメ/マンガ/ゲームを歌舞伎などに代表される見立てと趣向の文化に比するのは相当無理があるのではないだろうか。
 こうしたことは、アニメ/マンガ/ゲームをメディア論として考える時に非常に重要な意味を持つだろう。今後、こうした観点から考察が深まることを希望する。もちろん、ぼく自身も上記のような視点から考察を展開し、オタク系文化に少しでも貢献ができるよう、努力する所存である。

 題名と全然違う内容になっちゃったぴよ。

*1:勿論、それ以降に出たゲームでも好きなのはあるけどね。DOAシリーズとか「スペースチャンネル5」とか「ガンパレード・マーチ」とか。

*2:ギルティギアシリーズで有名な会社。

*3:ここでいう「アニメーション」と「アニメ」は別ものと考えててほしい。つまり、アニメーションは静止した画像や立体造型物を連続的に撮影することで成立する映像表現全般のことを指すが、「アニメ」は手塚治虫の「鉄腕アトム」以降、日本で独自の進化を遂げた、セル画によるリミテッド・アニメのことを指す。

*4:ぼくは原作読んでません。

*5:戦前の作品も加えるとそれ以上ですね。

*6:東浩紀さんの言葉を借りて、「メタリアル・フィクション」といってもいい。

*7:だからオタク達は「アニメ/マンガ/ゲーム」と現実の区別がついていないのではない。事態は逆で、オタク達はアニメ/マンガ/ゲームと自分達が生きるための基盤である社会的現実の区別ははっきりと出来ている。ただ、社会的現実を生きることで得られる喜びよりもアニメ/マンガ/ゲームの世界に近付こうとした時に得られる快楽の方に価値を見い出しているだけなのだ。