さて、いよいよ望月さん(id:motidukisigeru)に対する批判を開始したい。
 というより、これは東浩紀氏(id:hazuma)の著作をテクストとしたOTAKU文化に関する公開討論という形になると思う。何故なら、東浩紀の著作のOTAKU文化に対する「正統性」について論じるのはあまりに意味がなく、おそらく同じOTAKU第二世代後期の生まれであるぼくと望月さんによって、OTAKU文化について語りあう方がずっと有意義だと思うからだ。また、ぼくは望月さんだけでなく、東さんの著作についても必要に応じて批判していくつもりである。
 
 さて、以下にぼくが知っている限りにおいて、これまで東浩紀を批判、あるいは否定してきた人たちを列挙する。*1

 ハイカルチャー         サブカルチャー

 柄谷行人     大塚英志   唐沢俊一
 浅田彰             小川びい
 山形哲生            転叫院
 鎌田東二            望月茂
 上野俊哉
 某小説家
 宮台真司
 斎藤環
 小谷真理

 この表には、三つの特徴が見られる。一つ目は今でも(比較的)東さんと交流があるのは宮台さんと斎藤さんと小谷さんの三人だけだということである。*2中でも斎藤さんは、ラカニアン(斎藤さん自身の言葉を使えば「ラカン萌え」)とデリディアンという根本的な立場の違いがあるにも関わらず、上掲の表の中でもっとも友好関係にある。これは

の鼎談で東さん自身が仰っているように、東さんと斎藤さんの立場の違いは「ラカンの言葉を使いたくない派と使いたい派の違いでしかない」ことに起因するものと思われる。二つ目はハイカルチャーサブカルチャーの二つの領域に属するのが大塚さんただ一人だけだということだ。これは大塚さんが編集者に端を発し、その後、まんが原作者、批評家と徐々にその活動の幅を広げていったという、彼固有の経歴に由来するものだろう。三つめは女性の批判者が某小説家と小谷さんだけだということである。*3この中で、ぼくは点は3つめの、東浩紀の批判者に女性が少ない点に注目している。この点については後述する。

 次に東さんに対する「批判」には、とりわけオタコ界には感情的反発に由来するものがほとんどであるように思われる。これ自体は、その批判の内容が論理性と客観性と最低限の礼儀を備えていれば別に問題はない。単なる悪口や嫉妬や揶揄は論ずるに値しない。
 それにしてもオタコ界において、東さんに対する感情的な反発が大きいのは何故か。
 思うにそれはオタコから見ると、東さんはオタコたちが共有している「教養」や「正史」に欠けているからだろう。また、自分達のジャンルにオタコではない者が侵入してくることに対して、一般にオタコは極めて保守的であることも原因と思われる。
 ぼくは、その理解がオタコからみて誤読でしかないものだとしても、もっと大きな解釈的視点において面白ければ別にオタコ以外の立場の人がOTAKU文化を論じることは有益だと思う。ただ、文化的搾取をする人には嫌悪を感じる。東さんの活動がOTAKU文化に対する搾取なのかどうか、またそうだとしたらどの部分が搾取的なのかは、今後、この討議で明らかにしていくつもりだ。
 また、東さんは

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

における理論展開には、やおいなどの女性オタク文化についてはよく知らないので、視野に入れていない、と公言している。だからこそ、『網状言論F改』で小谷真理さんに寄稿を依頼し、鼎談をしたのだろう。これは素晴らしいことだ。東さんこそは彼が敬愛するデリダを超えて、男性性と女性性という歴史上、最も広深な溝を軽やかに飛び越え、それらの誤配を実践するに違いない。

 この討議は、ぼくと望月さんによって始められたものだが、他の方々の参入も歓迎する。長文の場合はご自分のサイトに書き、トラックバックを送るようにしていただけると幸いである。
 また、既にぼくと望月さんの間では了承済みだが、この討議はあくまでも本業の余暇として行っているものなので、お互いへの返答は不定期に行われる。そのため、論議の速度はそれほど速くはならないだろうことをあらかじめお断りしておく。

*1:ウェブや紙媒体などでの内容に乏しいものまで含めると際限がないのでそれは措く。また、これらの人たち以外で、ある程度まとまった東浩紀批判をしている人がいたら、教えて欲しい。

*2:直接、東さんに確認を取ったわけではないので、一読者として知る限りにおいてではあるが。

*3:某小説家については批評・文芸同人誌『Cluster』第一号(モスコミューン出版部)の東浩紀インタビューを参照されたい。