解釈のモデル

 id:hhosono:20041223#p2に続き、東浩紀氏(id:hazuma)の著作についての議論を述べる。
 まず、望月さん(id:motidukisigeru)がid:motidukisigeru:20050107#p1での

まず一般女性オタクからの反響が少ないのは、東浩紀が考察の対象とした作品が、基本的に男性オタク向けの作品であったことで説明できます。仮に東が、例えば、やおい系作品をポストモダンと絡めて語っていたら、もっと大きな反響が女性からあったかもしれない。
(中略)
 女性批評家からの反響の場合、そもそもオタクに関して哲学的な批評をする女性評論家って、小谷真理以外に私は知らないのですが、他に誰かいましたかね。中島梓……は、ずいぶん活動してないし。

 東浩紀の議論、主張の内容以前に、単純に「オタク系女性評論家が少ない」せいではないかと思います。

への返答をする。
 結論から言えば、望月さんの言うとおりである。しかし、それでも「女性評論家が少ないのは何故か?」という問いが残る。
 東さんの言論活動と女性については、モスコミューン出版部の『Cluster』第一号収載の東浩紀インタビューおよび

収載の鼎談「ポストモダン・オタク・セクシュアリティ」が重要である。
 話は変わって。
 東さんをめぐる批判のほとんどが水かけ論というか不毛な展開になっているのは、オタクをアイデンティティとする人々からの批判の多くが、東さんの理論モデルとは別の次元で議論を展開しているために話がかみあっていないからだと思う。
 ここで、創作物や論文などを読解する態度を便宜上、以下の四つに分類してみよう。

1.レビュアー:創作物や論文などの梗概を簡潔にまとめ、要点を紹介する人。
2.評論家:創作物や論文などの全体像、あるいはその一部を可能な限り、客観的に分析する人。
3.批評家:創作物や論文などの視えにくい急所や欠点を指摘したり、それまでの解釈とは違う、オルタナティブな読解の可能性を提示する人。
4.研究者:創作物や論文を先行研究と比較参照しながら、厳密な論理展開によって読解する人。
 この四つの立場はレビュアー→評論家→批評家→研究者の順で専門領域が狭くなり、読解や証明の視点が精緻になっていく。
 そして、東さんの言論活動は主としてフランス現代思想、工学技術的管理社会論、表象文化論の三点に分類できるが、そのいずれもが批評的方法論に基づいている。*1
 おそらく、東さんは社会や文化に対する大雑把な見取り図を作り、そこに新たなネットワークを付け加えるという戦略、つまり評論家的方法論を踏まえた上で批評家的方法論を展開するという形で議論を展開する人なのだ。というより、東さんの仕事は自ら明言しているように「両者の等質性を明らかにしたうえで、メインカルチャーの限界をオルタナティブから照射していく」ものであり、「主流文化と接続できる枠組みを提供しつつ、同時にその枠組み自身も攻撃できるようなツールを作る」もので、そういう論理モデルなのだということを念頭に入れるべきである。
 しかし、オタクによる東浩紀批判の多くは書誌学、あるいは訓古学的な研究者の立場に立脚している。東さん自身はどうやらそうした精緻な研究には興味がないみたいだし、オタクの多くは上記のような解釈のモデルの違いに気がついていない。これがオタクによる東浩紀批判の不毛さの最大の要因である*2とぼくは思う。
 もちろん、研究者の立場から他の立場にいる人の著作について批判できないわけではないし、寧ろ、東さんが提出した理論をより良いものに修整することで、私たちの文化をより豊かなものにするためには様々な立場からの活発な議論は必要である。
 おそらく、東さんに対する批判としてもっとも有効な方法は、東さんの方法論に基づきながら、別の理論モデルを構築すること、つまり東浩紀の理論を脱構築することだろう。
 そうした批判ができているのは、ぼくが知る限りは、小谷真理さん、斎藤環さん、大塚英志さん、宮台真司さんの四人だけだ。
 ぼくはネット上で、望月さんや他の様々な人々との議論によって、東さんの理論を脱構築することを試みている。

*1:厳密に言えば東さんも書評やコラムを書いているから、レビュアーの立場の時もあるけれど。

*2:あと、感情的な反発とか揶揄を含んだ物言いね。既に散々言われてきていることだけれど、議論をする際に(特にネット上では)最低限の礼儀は必要不可欠だから。こういうことを書くと「またそんな話か」と思う人がいるだろうけれど、ぼくはネットがこれ以上、無責任で不毛な場にならないためにも何度でもこの点は強調する。