望月さんのはてなid:motidukisigeru:20050203とid:motidukisigeru:20050204より。

特定の理論を持っているということは、それの論拠となる具体的な事実も、持っていることだと思います。私から見て、細野さんの書かれていることが抽象的すぎて把握しにくいので、一旦、もう少し事実よりの具体例を出してほしい、ということです。*1

 オタク層の全貌を定義せよ、というのではなくて、「この場合の実例」を出してほしい、ということですね。

 了解しました。ただ、ぼくの戦略は、個々のOTAKU系作品を受容している人々や、それぞれの嗜好を一度、棚上げして、OTAKU文化の歴史の中から、それぞれの時代を便宜的に分割して、そこから売れた作品、あるいは売れなくても、後のクリエイターや消費者に影響を与えた作品群を整理し、それぞれの時代の平均的なオタク文化の流れを概観を提示し、それを読者がそのおおまかの流れと自分の趣味嗜好の偏差をそれぞれが比較して欲しい、というものです。それぞれのオタクあるいはOTAKUの思い入れを一々斟酌していたら、きりがないですから。

さて、細野さんとは「メロンブックスでエロ漫画と同人買ってるお兄さん」が男性オタクであることは合意できた。

 オタクの定義というのをもってこられた場合、私は、この「メロンブックスの兄ちゃん」に当てはめて考えてしまう。

 彼はコミケに行くだろうか? 行くかもしれないし、行かないかもしれない。

 細野さんの言う、古いオタクのように「文脈の読み替え」にこだわるだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

 キャラへの愛好(萌え)を中心に据えるだろうか? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

 結局のところ、オタクは集団なので、どんな定義をもってくるにせよ、当てはまる人間と当てはまらない人間が出る。

 「オタクの定義」というのは、「私はオタクの多くがもつ、この性質に注目しています」ということだけで、それ以上でもそれ以下でもない。どの性質を大切なものと見なすか、という点で、イデオロギー論争が起こりやすい。

 この点も前述の文章と重なりますが、ぼくは個々のOTAKUあるいはオタクの個人的歴史には立ち入らないようにしています。それはそれで間違ったものではないし、ここに自分なりに影響の歴史を考えることはよいことだと思います。
 ただ、文化について考える上で、個々の実感や嗜好は一度棚上げしないと、歴史は編纂できません。あくまで文化とその大雑把な受容の変遷にのみ注目することが、批評や評論の限界だと思います。
 確かに「オタクとは○○である」という定義、または確定記述の積み重ねをするよりも「○○という行動または嗜好を持つ人はオタクと呼んでもよいだろうか?」という個別具体論のほうが、さしさわりがないとは思いますが。
 また、id:motidukisigeru:20050204でINOSANさんがコメント欄で仰っているように、「オタクとはオタク向け作品の消費者層である」と言うのは、トートロジーに過ぎないように思えます。*1

 ぼくがオタクの定義/記述のところで、モテ/非モテの話を出したのは、宮崎事件以降、社会的な認知として「オタク=気持ち悪い」というラベリングがあり、それを受けて、オタクの中でも少なくない人がそれを受け入れてしまったことを受けてのものです。もちろん、ぼくはアニメやマンガやゲームなどが好きでも、人付き合いをそつなくこなし、恋愛もうまくやっている人を数多く知っています。そうした人は非オタクの友達や家族に対しても、自分の趣味に対する説明をきちんとしていて、「あいつはオタク的な趣味があるけど、それだけに耽溺しているわけじゃないし、まして犯罪に走ることはない」という認知を得ているからです。
 しかし、一方で、アニメやマンガやゲームはもてない人々のための愛玩物で「なければいけない」と頑なに思い、特におたく第一世代と呼ばれる人々は、「自分たちは社会からの偏見に立ち向かい、アニメやマンガといった文化を護ってきたのだ」という自負が強くあります。
 しかし、おたく第一世代の代表的論客の一人である岡田斗氏夫氏は、その著作の中で宮崎事件の際に「死体を食ってるところ見られたという気分」がしたと明言しています。*2岡田氏に限らず、OTAKUが社会的に注目してきた昨今、非モテ系とか様々な形で「オタク文化=ダメなもの=ジャンクとしてのサブカルチャー」という構図にこだわっている人が少なくありません。ぼくはOTAKU文化を社会的にことさら芸術の位置まで高める必要があるとは思いませんが、少なくとも自分が好きなものは肯定したいと思っています。しかし、一方で自分の弱さとアニメ、マンガ、ゲームへの偏愛を短絡し、かつ社会的にも「オタク=気持ち悪い」という認識が一般的な以上、そのイメージは払拭されるべきだと思います。
 その意味で、ぼくは「OTAKU」という表記を使うようにしました。欧米諸国では、オタク文化に対して、一種のテクノロジー・フューチャリズムのような憧憬があり、オタクの負の面をあまり意識しておらず、一種の新しいサイバー・カルチャーとして認識されているからです。つまりこれは岡田斗司夫が90年代半ばまで半分冗談としてやっていながら途中で放り出した戦略を本気でやろうというものです。
 だから、ぼくは望月さんやINOSANさんやマルセルさんがダメオタとは思ってません。そういう個別の話ではなくて、オタク界にはびこる、負のイメージを払拭したいだけなのです。その点に関しては、ご賢察のほどをお願いします。

*1:この点は、東浩紀さんが突っ込んでいましたが。

*2:id:hhosono:20050117。