『御緩漫玉日記』1巻を読む。

 伊藤剛さんのid:goito-mineral:20050204#p1やid:nanariさんのid:nanari:20050204#p1、竹熊健太郎さんのhttp://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/02/post.htmlで紹介されている

御緩漫玉日記 (1) (Beam comix)

御緩漫玉日記 (1) (Beam comix)

を買いました。
 桜さんは
しあわせのかたち (5) (Beam comix)

しあわせのかたち (5) (Beam comix)

くらいから、日常を単にエッセイ的にマンガにしたものではなく、虚実入り乱れた作品を書き始め、その後の
防衛漫玉日記 (1) (Beam comix)

防衛漫玉日記 (1) (Beam comix)

(全2巻)、
幽玄漫玉日記 (1) (Beam comix)

幽玄漫玉日記 (1) (Beam comix)

(全6巻)を初め、商業誌でマンガを描くということ自体をテーマにマンガを描き続けて来た人だ。
 ぼくは個人的には、作品と作者は区分して考えるべきだと思っている。勿論、作品というのは、作者のある面が反映しているわけだから、無関係なわけではないが、その作者の内面の反映でさえも、作者のこれまでの経験やメディア体験からの影響の下に成り立っているわけだから、素朴に作品を作者の内面の反映と考えるのは、あまりに暴論だと言わざるを得ない。
 しかし、どこかで作者と作品が繋がっているのもやはり事実である。問題は、作者が自分の心情や体験をどのように虚構化していくかという、その手続きにある。これまで、多くのマンガが自身を作品の登場人物や語り手に設定したり、メタフィクショナルな構造に挑戦してきた。しかし、それらの作品と、桜さんの漫玉以降の諸作品は明らかに質が異なっている。これらの作品において、作品の記述と事実の単純な相互検証は、おそらくほぼ無意味だろう。そういったアプローチではなくて、作者が経験や自分の価値観を如何に虚構化、マンガという形式に落とし込んでいったのかという手つきこそを検証すべきだと思う。
 その意味では、文学と比較研究するならば、自然主義私小説作家との比較ではなく、太宰治高見順などの昭和10年前後に活躍した作家の諸作品と検討することは有意義であるように思われる。