思想家としてのニーチェではなく、哲学者としてのニーチェ。

ニーチェは、今日? (ちくま学芸文庫)

ニーチェは、今日? (ちくま学芸文庫)

ニーチェ入門 (ちくま新書)

ニーチェ入門 (ちくま新書)

を読んでいる。以前から、竹田青嗣の著作には何か胡散臭さを感じていたが、本書を読んで、それはますます強くなった。竹田は哲学と思想の区別がついていない。思想は思索の結果であって、それは必ずしも社会や世界の自明性に対する疑義を必要としない。かつ、それは社会を個人の生き方を「良く」するためのものである。しかし、哲学は(少なくともぼくの考えでは)社会や世界、あるいはそれらが招請する法や道徳など様々な約束事や、世界そのものの在り方自体について個々人が必要とする観点から考察することで生じる、その過程そのものであって、その過程から導き出された結論はとりあえずの中間地点である。だからその結論は哲学にとってさほど重要なものではなく*1、問題意識や命題の立て方が変わっていくにせよ、その営みに終わりはないからだ。
 竹田の哲学に対する理解は、哲学のそうした営為よりも、哲学者がとりあえずの結論として出した中間仮説≒思想にのみ向けられており、哲学や思想は個人や社会を良くするためのものとされている。
 哲学が世界や私や時間や他者問題や言語などを対象にするとき、もっとも邪魔になるのは「社会」とか「人間」とか「言語」とか「認知」などにおける、通常、意識されない自明性である。その自明性自体を検証し、その成立条件について考察することこそが「哲学」であって、哲学者はあくまで自分の問題意識から出発し、先人の業績は、あくまで参照項とすべきである。デカルトやカントやニーチェハイデガーは確かに偉大な哲学者だが、彼らの著作を彼らの哲学営為に沿って解釈しようとするのは「哲学」ではなく、「哲学研究」である。
 また、「哲学」はそれを必要とする人間、それを欲する人間だけが行えば良いわけで、世の中の全ての人に必要なものでは決してない。
 しかし、竹田のニーチェ解釈は(ニーチェに限らず、彼の著作のほとんどは)哲学や思想を「文学」的に、あるいは「哲学研究」的に分析したもので、ぼくは竹田の著作からは哲学の精髄は微塵も感じられない。『ニーチェは、今日?』は竹田に比べれば、遥かに哲学的な営為として評価できるが、やはり彼らはニーチェ(とハイデガー)がナチスの政治的戦略に利用されたことに対する反省と、ナチスの悪行からニーチェの哲学を救い出そうという意図が見える。そして民主主義的な限界から脱出しえず、ニーチェ永劫回帰や超人といった概念を何とか(理想としての)民主主義と折り合いをつけようとしているように思える。
 勿論、ニーチェの著作は、首尾一貫したものではなく、それぞれに矛盾する個所があるし、明らかな誤謬も見られるから、彼の著作を絶対視するのは危険である。しかし、ぼくが今まで読んだ哲学書思想書の中で、ニーチェの著作は、ぼくの長年の疑問について考える上で、もっとも示唆に富んでいる。
 現在のぼくの関心からすれば、そろそろ
ニーチェ〈1〉

ニーチェ〈1〉

ニーチェ〈2〉

ニーチェ〈2〉

ニーチェ〈3〉

ニーチェ〈3〉

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫)

存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ (ちくま学芸文庫)

ニーチェ (ちくま学芸文庫)

ニーチェと哲学

ニーチェと哲学

あたりを読むべきなのかもしれない。
 余談だが、ニーチェ永劫回帰、超人といった概念、あるいは永井均さんの
私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

で考察されていることと仏教、特に禅宗唯識論との比較*2については興味があるので、その辺の仏典やそうした比較による考察をまとめた著作を探してみよう。

*1:何故なら、哲学という営為の中から生まれた結論は、優れた哲学者であれば、すぐさままた新たな問いを生み出すからだ。そしてその結論は、場合によっては思想と呼ばれる。

*2:同じことを言ってるとは思わないけどさ、比較すると面白いかなと思って。