世界の解釈体系としての科学と宗教。
ニーチェの
ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)
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とにかく、近代化した社会では、宗教の権力は弱まった。代わりに世界に対する認識体系として力を持ったのは科学だ。科学は宗教とは異なる魅力と危険性を持つ意味で、非常に面白いものである。
例えば、科学に価値の重きを置く人の中には「神など存在しない」という立場を取る人がいる。所謂「無神論者」というやつだ。確かに様々な宗教で信奉されているような超越者としての神は、人間や林檎や台風のように、つまり個人や物体や現象としては存在しない。*1この点については、有神論者も無神論者も同意するだろう。そして「神」という言葉、あるいは概念が(それが存在することの意義や是非などの価値観はとりあえずおいておくとして)存在するということも双方ともに異議はないはずだ。
問題は、通常、人間が認識できない世界に神がいて、人間は特殊な状況化あれば神の存在を認知できるということに対する宗教者の言い分をどう考えるかにある。
まず、後者の問題から考えてみよう。人間は、特殊な状況化においては神(とその人が認定するもの)を認知できる。これは間違いない。しかしそれは信仰心が厚く、徳の高い聖職者や、神の啓示を受けた人だけが得られるものではない。オウム事件やヒッピー・ムーブメントなどを省みれば明らかだが、薬物などを使って、人間の神経系や精神を操作することで、いくらでも神を感じることはできる。このことを無神論者が「それは脳が生み出した錯覚であって、神ではない」と反論するとき、それはある面では正しいが、ある面では問題がずれている。神との交感は、その神に対してどれほど多くの信者がいたとしても、常に個人的かつ主観的な体験だからだ。ここでは、科学が観察や検証を通じて客観性を検出する作業は無意味である。それに所謂「現実」の内的確信と神との交感によって起きる内的確信を科学が峻別し、後者を単なる錯覚とするには、そうした体験に対する検証、実験はあまりに足りないと思う。*2
ここで、神の存在についての中核となる命題、「超越者としての神は存在しうるか」について考えてみたい。多くの宗教で、神は人間の住む世界とは違う世界に住んでいるとされている。宗教では、神が世界を創ったり、世界の生成変化について関与したり、局所的にその奇跡を顕現するとされている。とはいえ、我々の、あるいは科学的常識からすればありそうもないこと=奇跡が起きたとき、それが神の見業だという客観的証拠は科学者を納得させるには未だ不十分である。それは神の世界が人間の住む世界の絶対的な法則(とされているもの)では及ばない領域にいることと、そもそも当の(多くの)宗教自体がそのように規定しているからである。
ぼくは、人類が宗教というシステムを作って以来、そこで語られてきたような神はいないと思う。しかし、ぼくは無神論者ではない。ぼくの神の実在論に対する基本的な認識は「超越的な神は人間の不可知の領域にいるという定義上、存在するかしないかは人間には客観的(=科学的)には証明できない」というものだ。おそらく、この答えこそが有神論者にも無神論者にも同意できるもののはずだ。
ぼく個人は「神」*3は重要だと思うし、ぼくにとっての「神」は人格として扱われるものでも、世界の創造、生成、変化を担っているものでもなく、あらゆる「存在」そのものである。多くの宗教ではそれに創造者としての立場や人間が目指すべき最高存在という属性を与えているが、それは社会や共同体や個人の苦悩(病気、貧困、死など)を救済するための方便である。その方便が巧く機能している神については、科学者は慎重に扱うべきだ。確かに近代以降、宗教の聖性が失われ、様々な要因により、信者を救えない宗教、社会のアジールとして機能しなくなった宗教が多い。それまで宗教が培ってきた方法論を用いて、社会的差別を助長し、信者を搾取するような宗教は非難されてしかるべきだが、宗教の「救済」の機能を否定することはない。それは決して科学にはできないことだし、現代科学の研究成果から考えても「神は存在しない」と断言するだけの根拠はないからだ。
ちなみに、ぼくは特定の宗教に本心から帰依はしていないが、日本の仏教(のある側面)は好きだ。特に禅宗。あと多神教も好きだ。多神教の神は大抵、性格が極端で面白いからだ。個人的には一神教は好きではないが、だからといって、それらの文化や個々人の信仰をバカにしたり、卑下するつもりもない。
上記のような問題に関しては、
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