8時ごろ起床。私立眼鏡学園創立祭以降、生活リズムが崩壊していたが、最近ようやくまともになってきた。企画書とか書く。BGMは

ディスカバリー

ディスカバリー

。このアルバムは何時聴いても良い。アルバムを通して聴くとダフトパンクが宇宙に*1連れて行ってくれるような気がする。
 文章を書くとき、書きながら考える部分もあるが、大抵の場合はまず頭の中でネタを揃えて、それからキーワードを書き出し、それを基に書いていくので、実際に文章に起こす作業はけっこう辛いときがある。レトリック自体をどうするかを考えるのもそれなりに楽しいが、ぼくは発想の人なので、ネタを思いついて、頭の中でそれらをつなげていく作業が何より楽しいのだ。だから大抵、音楽を聴きながら文章を書いている。仕事場にテレビが導入されたので、CATVを導入したらTVもつけっぱなしになるだろう。
 しかもこうした雑文やレビュー、評論、コラム、シナリオなどはともかく、企画書を書くのはあまり好きではないので更にもの想いに耽りながら書くことが多い。さっきも「永久機関は作りうるか?」とか考えていた。答えは「ほぼ間違いなく作りえない」だ。そして「永久機関は存在するか?」→「する。この<世界>自体がそれだ」とか。こういうあらゆる意味で何の役にも立たないことを考えるのが大好きだ。*2
 
 ネットで検索をかけると、ブロードバンドなら一瞬〜数十秒で結果が出るが、改めて考えてみると、これってすごいことだ。だって、自分のコンピュータがホストサーバに接続し、そこから世界中のサーバ上のデータと通信してこれほどまでの短時間で結果を出せるってとてつもないことだと思う。既にコンピュータ・ネットワークは現実のように多様な情報を備えているという思いが頭をかすめるが、それは違う。現実世界はそのように思えるコンピュータ・ネットワークを既にその内部に備えているわけだから、現実世界のほうが間違いなく多様に決まっている。ただ、「情報」という言葉の定義からすると、現実世界には情報そのものが存在しているわけではなく、現実世界と人間の認識の交差したところに情報というものが生まれるわけだから、事情はもうちょっと複雑である。この点に関しては
こころの情報学 (ちくま新書)

こころの情報学 (ちくま新書)

にきわめて解りやすく解説されている。こういうことを考えていると、マトリョーシュカ化したバベルの図書館を妄想してしまう。ゲーデルエッシャーボルヘスによって構築された胡桃の中の世界。

*1:しかも松本零士色の。

*2:唐沢俊一氏の一行知識やB級文化愛好とかは好きではない。あれは世の中の価値観に対するルサンチマンを感じるからだ。ぼくは社会的、公的価値基準を超えたところにあることを考えるのが好きなのだ。