以前買ったVAIOが小さいのはいいのだが小さいだけあってキーボードも小さい。というか小さすぎて非常に打ちづらい。思案したあげく、丸めることのできるキーボードを買う。次にノートPCを買うときはB5サイズにしようと心に誓う。
 キーボードを買った帰りに、先日購入した

Comic 新現実 vol.5 (単行本コミックス)

Comic 新現実 vol.5 (単行本コミックス)

所載の鼎談「「おたく男」が目をそらしてきたもの――「萌え」と「やおい」の並行世界のゆくえ」での議論を思い出す。
 以下、上述の鼎談からぼくが重要だと思った箇所を抜粋するが、省略した部分について文中で一切明示しないので、それを念頭に置いて読んで欲しい。

更科 男性おたくは脊髄感覚的に、フェミニズム的なものを嫌悪するんです。だから当然さっきの岡崎京子的なものも嫌いますし。男の子の全能感を、全面肯定するようなものじゃないと、基本的に受け付けないんですよ。

大塚 岡崎さんを嫌うおたくって岡田斗司夫とか、どの時代にもいて、それは、どの世代にもマッチョバカがいるだけの話なんだろうな。無能な奴の全能感を岡崎さんのまんがが肯定してくれないっていうのは言いがかりだよ。

更科 自己投影、欲望対象の問題で考えると、女の子たちは欲望の対象として、イケメン同士の恋愛を描きますが、それは女性によって理想化された男たちなわけです。でも、男からしてみれば、尾崎南が描くような顎が尖ってて背の高いイケメンにはシンクロできないわけです。だから「自分とは違う理想化された男を描いているお前らは気持ち悪い」と言い出す。ただ、例外は幾つかありまして、ショタ系や女装系のまんがは自己虚勢という欲望を投影できるから男も読むんですよ。

更科 すでに秋葉原でも棲み分けができていて、とらのあなは男性向け、アニメイトは女性向けという感じで、割合的にはフィフティ・フィフティです。けれど

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ

では萌え系の側面だけがクローズアップされていて、やおいとかボーイズラブは存在しないことにされているんですね。あの辺のオタクセレブな人たちはよく、現在の世界を構成する全ての要素は等価でパラレルだと主張していて、それはそうなのかも知れないけど、男の子の全能感を肯定しない事象に対しての視点はすっぽりと抜けていて、存在すら忘却しているように見えます。『ドラえもん』の石ころ帽子みたいにね。

大塚 あの本は、そこをつつけば良かったんだ。おっちゃん、気がつかなかった(笑)。*1

更科 現実の女性はリソースを消費するからイヤだっていう思考があるんですね。そういうオタクの男の子はキャラクター化されて自意識がない方向にしか性的関心が向かわないから、二次元のキャラクター以外では声優ファンになるしかないんです。

更科 宮村優子みたいに、自意識が垣間見えるようなふるまいをしてしまうと、逆に人気がなくなるんですよ。だから、彼らは自意識というノイズをあらかじめ排除された二次元の「女の子」か、演じることで自意識を抑圧されている声優の「女の子」という幻想にしか欲情できないのかも知れません。

 ここでの更科さん(id:cuteplus)さんの数々の発言はすばらしく重要だ。*2
 まず、森川さんが少なくとも著書やベネツィアビエンナーレでの展示などにおいてやおいなどの女性文化をほとんど考慮に入れていないことは明白である。また、東浩紀さんが

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

執筆時にやおいを考慮に入れていないことを自覚しており、そこからで、その不備を補完し、OTAKU文化についての議論を発展させるべく、小谷真理さんをシンポジウムに発表者として迎え入れ、かつ斎藤環さんと共に鼎談をしたのに、それ以降、急速に女性OTAKU文化へのアプローチが途絶えていった*3ことに関する指摘も注目に値する。
 この更科さんの発言を踏まえて以前から考えていたことがだいぶ整理できた。ぼくは男性が女性が好きなんだけど、現実の女性よりもOTAKU文化の中の虚構の女性の方が好きだということ自体は否定や非難や嘲笑の対象にはならないと思う。非難されるべきは、自分のコミュニケーション・スキルの欠如を棚上げしておきながら現実の女性と虚構の女性、自らの想像の内にある女性を比して後者を称揚し、前者を攻撃する態度だ。こういう態度を取る限り、そういう人たちは嘲笑されるのは当然だ。そればかりではなく、OTAKU文化にとって害悪ですらある。
 更科さんの文脈での、零落したマッチョとしての男性オタクは、しばしば女性に可愛いこと、美しいことを求めるが、それが同時に女性への攻撃を伴うことがある。「可愛い女の子は当然、モテる。ということは、コミュニケーションする相手、とりわけ恋愛対象への要求は高い。となると、モテない自分など相手にしてくれないに決まっている。可愛いから好きなのに、お前を好きな俺を好きになってくれないのはむかつく」という思考が背景にあるからだ。可愛さ余って憎さ百倍というわけだ。はっきり言って愚か過ぎる。愚の骨頂ここに極まれりとはこのことだ。可愛いなら可愛いほどいいに決まってるじゃんか! 可愛い過ぎて憎いってわけわかんねぇよ! 現実の女性より虚構の女性のほうが好きならそれに誇りを持てよ! したらめっさ格好良いべさ!
 上述の問題に関して、もっとも興味深く、かつ重要な問題提起を夏一葉id:natsu-k)さんは自身のはてな日記で数多く試みている。全てのOTAKU文化を愛する人に読んで欲しい。

*1:引用者註:

Comic 新現実 Vol.3 (単行本コミックス)

Comic 新現実 Vol.3 (単行本コミックス)

所載の対談「「おたく」とナショナリズム」参照のこと。

*2:アニメやマンガやゲームを好きな男性の全てが零落したマッチョか、あるいはオタクなわけではない。女性とうまくコミュニケーションを取れない男性たちが、その原因を自覚せず、かつそれを改善しないための方途として「俺はどうせオタクだし」と言っているに過ぎない。「虚構の存在が好き=現実に適応できない」という見方はロマン主義批判の昔からあり、かつ宮崎勤事件という決定的なトラウマを経て「おたく=現実適応不全」が強化され、ますます事態はややこしくなっていったのだろう。つまり、小学校高学年〜中学生のときにアニメやマンガやゲームが大好きだということをアイデンティティに組み込むことを選択したときに、それが「自分は現実適応不全だ」と看做してしまう考え方の枠組みが宮崎事件以降に社会的に概念化されてしまい、おたくであるということと、非モテ系であることの因果関係がメビウスの環のような状態になってしまったのだ。更科さんのここでの発言はそうした背景を踏まえ、かつ、おたくの定義に関する議論の不毛さを考慮した上で便宜上、男性オタク=零落したマッチョとしたのだと思う。

*3:わずかに『波状言論』で金田さんによるやおい論が掲載されているのみ。