7時過ぎに起床。朝食後に近所を散歩といういつものコース。
 散歩中に考えたこと。
 

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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を批判する人は多い。確かにあの本のアニメ史に関する整理はかなり乱暴である。と言っても
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についての考察ではない。これら二作品に対する東さんの読解は批評として(あまり意識されていないであろう解釈可能性を示すものとして)非常に真っ当だからだ。ぼくが乱暴だと思うのは大塚康生さん、宮崎駿さん、高畑勲さんを表現主義りんたろうさん、安彦良和さん、富野由悠季さん、金田伊功さんを物語主義と分類してしまうような点である。ここで名前が挙がった方々は東さんの表現主義/物語主義の分割で捉えると見逃してしまうものが少なからずある。例えば、高畑さんと富野さんは原画、動画出身の人ではなく、演出を出自とする点で原画、動画、キャラクターデザインなどを経験している上記の他の表現者と大きく異なる。
 また、東さんは表現主義者を「基本的にフル・アニメ志向の動きの美学に魅せられたアニメーター」であり、「ディズニーやフライシャー兄弟の伝統に則った正統的なアニメーション」を追求している人と、物語主義者は「リミテッド・アニメや循環動画、バンク・システムなどの限界を前提としながら、動きの美学とは別の方向で作品の魅力を組織しようとする作家」と記述している。この定義は「表現主義者=ディズニーを範とするフル・アニメ、リアル志向」、「物語主義=リミテッド・アニメの様々な拘束を逆に活用し、動きの美学とは異なる魅力を追求」と言い換えることができるが、宮崎さんにしても大塚さんにしてもディズニーから大きな影響を受けていることは間違いないし、フル・アニメーションに対する思い入れが強いのも確かだが、彼らにしてもリミテッド・アニメの拘束の中で格闘し、その中でディズニーとは異なる動きの美学を追究し、かつ物語を如何に見せるかを模索してきた。*1第一、宮崎さんや高畑さんが映像美と共に物語性を重んじている作家であることは
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スタジオジブリの諸作品を観れば明らかである。
 また、東さんは金田伊功さんを「リミテッド・アニメや循環動画、バンク・システムなどの限界を前提としながら、動きの美学とは別の方向で作品の魅力を組織しようとする作家」と捉えているが、それにも疑問を感じる。金田さんは(ロト・スコープを使ってまでリアルな動きに拘るような)フル・アニメーションにはない魅力とは異なる、現実の物理的制約にとらわれない溜めと変態的な動きが魅力*2のアニメーターの筈だ。
 また、望月さんはしばしば東さんが「ポストモダン」をマジック・ワードとして使っていることを批判している。確かに『動ポモ』は現代社会の諸現象の説明として「大きな物語の失墜」と「ポストモダン化」を原因として挙げながら、「ポストモダン化」の原因を巧く説明できず、トートロジーになっているきらいがある。これは想像の域を出ないが、東さんは「遅れてきたポストモダニスト」を自称するほどにポストモダニズムやフランス現代思想にコミットしているため、それらを知らない人を前提とした文章を書きづらいのではないかと思う。ポストモダニズムの文献をそれなりに読んでいる現代系オタにはよく解るが、それらを読んでいない人に対して、『動ポモ』が現代日本論、あるいはおたく論としてどれほど有効であるかは疑問が残る。
 ぼくは『動ポモ』は第三世代男性おたく(しかも葉鍵っ子)肯定論だと認識している。そして現代日本論、あるいはおたく論として読むのではなく、現代日本、あるいはおたくを例としたポストモダニズム入門として読むのが良いと思う。
 上記のような認識を下に、再び『動ポモ』論を書いていこう。

*1:

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を想起してほしい。

*2:

のOPなどを想起されたい。