再び太宰治のこと。
過日放送された太宰のドラマについて、ネット上の感想を参照しながら。
ちなみにこのドラマで描かれていた太宰は”言い訳の天才”のように俺には見えた。芯の強さ的なものも垣間見られたけどね。
id:Bang-cho:20051010#p1より
太宰に対する知識がないと自称するid:Bang-choのこの指摘は、慧眼と言える。
太宰と友人であった作家、壇一雄によれば、こんなエピソードがあったという。
熱海の旅館に逗留していた太宰のために奥さんから預かったお金を壇が届けに行ったところ、太宰は壇を引き止めて一緒に飲み歩き、とうとう全部使い果たしてしまい、文学の師、井伏鱒二にお金を借りてすぐ戻るからと言って、壇を人質として東京に戻った。
ところが数日待っても帰ってこないので、壇が、井伏の家にかけつけてみると、二人は呑気に将棋をさしていたという。
壇は、その時、激怒したのだが、その時の太宰は
「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」
と言ったそうだ。
こうした周囲の人間に迷惑をかけ、そのことを済まないと思いながら、あるいはだからこそ破天荒な生活を送るのだ、という心情は「家庭の幸福」などに描かれている。
また、id:Bang-choの言う芯の強さは、太宰自身は津軽人としての資質と考えていたと推測できるが、相馬正一氏などによる、詳細な研究を参照する限り、他者の評価を過剰に気にするのに、しばしば相反する行動を取ってしまうという、ある種のアダルト・チルドレン的な心性といえるかもしれない。そのような心性をモチーフに描いた太宰の作品を戦後太宰研究の第一人者奥野健男さんは「下降志向」「反立法」などと評している。
太宰治にこんなに共感していたらヤバいんじゃないのか、と云う気がしないでもないが。「たった一人の読者」とか、本当マズいって。
id:thebomb:20051010より
太宰が当時の文壇で評価され始めたのは、処女作品集『晩年』刊行時から第一回芥川賞の候補に挙がった頃である。当時の太宰は、素朴なな一人称/三人称による描写ではなく、新感覚派の巨匠、横光利一の言う「四人称」とでもいうような、実験的な小説を数多く書いていた。 id:hhosono:20051010#1128963943でも書いたが、山崎富栄に限らず、「これは自分のために書かれた小説だ」と思う読者は数多くいて、そうした太宰の文体を奥野さんは「潜在的二人称」という言葉で的確に表現している。
社会的な観点から、つまり自意識のにおける内省意識から考えると、太田静子さんに限らず、太宰読者にしばしばみられる「たった一人の読者」という気持ちはやばい。他者の視点から見れば、それは単なる作者の読者の共依存幻想だからだ。しかし、それほどまでにある種の読者に熱狂的に支持されるというのも、表現の受容における最善の状態の一つだと思う。
今なぜ太宰?それにしてもこのナルシストなダメ男を劇的なドラマにして視覚化してみたところで、ほんとにしょうもない男。弱くて寂しければ女にすがりゃよろしいの?過剰な自意識に振り回されて傷つくことが純粋か?っていう。人間失格といいながらも、そのじつ「ボクはダメなオトコです」と言うことで、なんだ結局自己正当化しているだけっぽくみえるのです。この代表作を大人になった今読み返してみると、そりゃもう自己陶酔の極地、悲劇のヒロイズムに満ち満ちていて強力なナルシシズムにむせかえるよう。
id:mxoxnxixcxa:20051010より
id:mxoxnxixcxaさんによる上記の指摘は、男性中心主義的社会の偏差に敏感であれば、かなり多くの人が思うことだろう。そしてこの指摘は太宰文学の、そしてセカイ系、非モテ系の心性をも的確に評している。
非モテの人々はよく、女性とのコミュニケーションを「面倒くさい」と言う。しかし、彼らは実は面倒だから女性とのコミュニケーションを嫌うのではなく、自分が傷つくことを過剰に恐れるために女性と距離を置き、マンガやアニメやゲームの女性キャラクターに耽溺しているのではないか。そして評論家ササキバラゴウさんは
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人間の偽善と愛が他者に向けられるとき、そしてそれ以上に自意識としてそれらが立ち表れるその瞬間をあくまでも虚構としての小説に拘りながら描かれた太宰の作品から今日の私達は、何を読み取るのだろうか。
*1:この点についてはササキバラさんが