ぼくはいつもこんなことばかり考えている。
黒田紀子さんがご結婚されたとき、石原慎太郎都知事が「ベルグソンの言葉だったと思うが『神仏を信じる信仰と結婚は本質的に似ている。その本質の原理は一種の『賭け』である』と言っている」というようなことを祝辞として述べたそうな。それについて日刊スポーツは「ベルグソンの言葉ではなく、パスカルの言葉だろう」という記事を発表した。ところが、どうやらパスカルもそんなことは言ってないらしい。……いい機会だからベルグソンとパスカル読もう。どうやら書いてあるとすれば、
- 作者: ベルグソン,平山高次
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先ほど、フジテレビの「スーパーニュース」を観ていたら、この件について、石原は「ベルグソンが言ったと断言していないし、反論があるなら論拠を示せ」「記事のためのような記事で、メディアの質の低さがうかがわれる」というような事を言っていて、確かにそのとおりなんだけど、何故にこの人はいつも喧嘩腰に見えるのだろう。本人は自覚してないのだろうけれど、無意識的に喧嘩腰な人ってけっこう多い。
また、勝谷誠彦さんがウェブ日記で
このベルクソンの「賭け」は石原さんが言うような「バクチ」ではなく「全身全霊をあずける」という意味の「賭ける」ではないんでしょうか。
と書いてが、要は「賭ける」と「懸ける」*1の違いだよね。大和言葉で「かける」と言えば
1.「翔ける/駆ける」系の「すばやく移動する」という意味。
2.「懸ける」「賭ける」系の「大事なものを何かに預けることでその二つを護る、より強固にする」という意味。
3.「(服などを)掛ける」「(橋などを)架ける」系の「ある対象に手段を用いてアプローチする」という意味。
の三つの意味を含んでいる。2、3に比べると1の意味がやや違うニュアンスを持っているが、要は主体と対象、あるいは二つのものについての関係性を表す言葉なわけだ。こうして考えると漢字の凄さと日本語の特殊性がよく解るな。
「橋」といえば「はし=端、橋、箸、嘴、梯」で、どれも「境界」あるいは「つなぐ」言葉でもある。
*1:「一生(または一所)懸命」という言葉を想起されたい。