もえ(萌え/燃え)とは何か?」という問い。

 「オタク」の全体像を定義するのは、斎藤環さんが云うように不可能だ。それは「もえ」についても同様である。様々な人間がそれぞれの言語感覚で使っている「もえ」という言葉の使われ方を包括した記述を、一体誰が端的にまとめられるだろうか。
 だから「オタク」も「もえ」も、その全体像の記述するのではなく、あえて限定的な意味を設定して、その定義に基づいてオタク系文化を考えた時、どれだけ有意義な考察が得られるか――これこそが「オタク」や「もえ」という言葉の定義に対する評価の基準となるべきものである。
 そう考えると東浩紀さんの著書『動物化するポストモダン』における「もえ」の定義はかなり適切なものだ。というのは、単なる「好き」と「もえ」を区別できるし、「もえ」という言葉が使われるようになって以降のオタク系作品の特質を記述できるからだ。
 東さんに対して「萌えなんて昔からあった、その言葉こそなかったものの、80年代のオタクはうる星やつらに萌えていたのだ」みたいな批判がよくあるが、それは間違い。だって当時のオタクはラムちゃん*1を見て「虎縞ハァハァ」なんていったり、ラムちゃんが好き過ぎて「角が生えているキャラなら何でも良くなってきている」とかいってなかった筈だから*2
 また、東さんは確かに

で「うる星やつら」とギャルゲーの類似性について指摘しているが、「似ている」といっているだけで「同じ」とはいっていないし、東さんの考えるオタク系文化史は「うる星やつら」の連載/放映当時のオタクはこの作品に「萌え」的な態度で接していたわけではないが、この作品のキャラクター/世界設定がギャルゲーを含めた、後の数多くのオタク系作品に絶大な影響を与え、「萌え」を用意した(原因の一つとなった)というものなので、上述の指摘から単純に矛盾を指摘しても無意味。

*1:やっぱり「ラム」じゃなくて「ラムちゃん」だよね。

*2:勿論、その時点で萌え的なキャラクター消費をしていた個人がごく少数ながらいたかもしれないけど、そうした楽しみ方はオタク集団の中で全体的に認知されるほど多くはなかった筈だ。