批判と否定

 客観的な事実と論理に基づき、概念や理論を修正すること――それを批判と呼ぼう*1。誰かを批判する時、そこに思い込みや感情が強く作用しているのならば、それは批判と呼ぶべきではなく、否定と呼ぶべきだ。第三者は勿論、批判された当の本人ですら、己れの理性に基づいて真摯に反省し、自らの主義や主張や理論や考察の不備を認め、改めること――これが理想的な批判である。東浩紀さんと斎藤環さんはお互いの理論に対して感情的な反発ではなく、理性に基づいて議論しており、彼らのやりとりはぼくには非常に健全な批判であるように思える。
 思うに、東さんのオタク系文化論は、オタクが薄々意識していたけど知らないふり*2をしていた事実を端的に示してしまったが故に、一部のオタクから猛烈な反発を受けているのだろう。認めたくない事実を否応なく見せつけられたから、ものすごい勢いで否定しているわけだ。
 しかし、東さんの理論を批判しているつもりで否定している人々に「あなた達の態度は否定しているだけで、それは東さんの理論の正しさを逆向きに証明しているだけですよ」といったところで、どうにもならない。やはり否定されるだろうから。
 かくの如く、批判や説得という行為は難しい。

*1:林檎というモノは、「林檎」という言葉が存在する前には、実は存在していない。その時、林檎は既に使われている他の言葉で呼ばれる何かに過ぎない。「赤くて丸くて硬めで食べるとシャリシャリしている果物」に「林檎」という名前がついた時に初めて林檎は存在するのだ。林檎のような具体物だけでなく、愛とか平和といった抽象的な概念や批判するという行為にしても同様だ。たとえネットの日記であっても文章を書いて、他者に公開する以上、このような言葉の仕組みには敏感でありたいし、まして他者を批判するような行為の際には充分に慎重でありたいと真剣に思う今日この頃。どうでもいいけど、この手の話をすると、何故、例に林檎が使われることが多いのだろう。それって思い込み?

*2:こういう態度を精神分析は否認というのだそうだ。