大衆文化は文化か娯楽か?
東浩紀さんが提唱する「社会のデータベース化による社会集団としての人間の動物化」という考え方は、大衆文化批判という側面を持つとぼくは解釈している――マーケティング技術とテクノロジーという武器を手にした資本主義と云う名の巨人が、メディアという鏡面的装置を使って大衆の欲望を生成管理しているのが現代社会で、その管理は娯楽的側面の強い大衆文化ではあらゆる面で徹底している。あらゆる大衆文化は複雑性、多面性をその表現から排除し、純粋性や身体性を全面に押し出し、理解や感情移入の短絡的な回路を消費者にそれと解らないように(あるいはそれだと解ってもそれだから故に良いと思うように)設置することに成功しつつある。今や大衆文化は極めて粗雑で単純なものになりつつある……*1。
こうした考え方*2に対して、とりあえず二つの反論ができる。
一つは、大衆文化は昔からそうではないか、という意見である。特に江戸(時代)は、前近代において有数の大規模都市となり、それなりに安定した社会構造を持ち、経済と大衆文化がそれまでにない発展を遂げたことから、既に現代に通じる大衆文化を持っていたという論旨のものはよく見受けられる。
しかし、確かに現代の大衆文化は江戸のそれと無関係ではないが、同一性を強調するような議論は、あまりに粗雑で多くの差異を無視し過ぎている。例えばコンピュータ、写真、テレビ、電話やインターネットなどのネットワークが大衆文化に与えた影響をまるで考えていないからだ。また、当時の浮世絵や黄表紙などを現在のアニメ/マンガ/ゲームに接続する見方も、戦後マンガ/アニメにおけるアメリカの影響を省みていないし、現在のアニメ/マンガ/ゲームの受容の実状に合致しない。ある時期までのアニメやマンガは引用や模倣の経路を追うことに意味があり、それが作品の価値を左右するという点で江戸文化における見立てや趣向、粋や通といった価値観に通じる側面が支配的だったが、現在のアニメ/マンガ/ゲームでは、引用や模倣、あるいは起源の意味が大きく異なっているのである。
もう一つは(そしてこちらの方がよほど厄介なのだが)「確かに文化が動物化しているとして、それで何が悪いの?」というものだ。
例えば、ぼくは四輪自動車の普通運転免許を所持しているが、特に自動車に対する興味やこだわりが今のところないので、自動車なんて燃費と乗り心地が良く、壊れ難くて、ついでにCDが聴ければそれで良いと思っている。自動車に対するこのような態度は、車好きからしたら何も解っていない、堕落した態度に見えるかも知れない。
また、ぼくは滅多に食べないが、食事なんてマクドナルドで充分だ、と思っている人もいるだろう。そういう考えの人に安易に「食事は手間暇かけた方が……」などという権利は誰にもない。
ぼくはアニメ/マンガ/ゲーム/音楽/小説などをこよなく愛しているが、アニメは宮崎アニメとディズニー、ゲームはFFとドラクエと50万本以上のヒット作、音楽はカラオケのために聴くもの、小説なんて読むのは面倒だからドラマと映画で充分だ、文化なんて所詮は娯楽で、消費し尽くして飽きたら捨てるだけだ、という考え方が、今や大衆社会の受け手の大多数を占めているのではないだろうか*3。
また、上記のように文化を消費物のように扱う人々だけでなく、文化に思い入れがある人々ですら、純粋性や身体性こそが文化の唯一の価値だと考える人が少なくない。島宇宙化し、ポストモダン化した社会では、自分の実存を保証してくれる単純なメッセージは力強いものに見えるからだ*4。
また、動物化した作品は圧倒的に快楽的だ。モーニング娘。や浜崎あゆみやブランド品やでじきゃらっとやトランス・ミュージックや「マトリックス」に対する消費者の態度は反射行動的で記号認識的で依存的で感情的であるが故に力強く、圧倒的な支持を得ている*5。
ここまで読まれた方はもうお解りだと思うが、ぼくは基本的には動物化した文化よりも複雑性によって構築された文化の方が好きだ。しかし動物化した文化(というより端的に娯楽というべきか?)の良さも解る。モーニング娘。を見ていると、この快楽の園にいられるのなら、動物になってもいいではないか、とさえ思う時がある。
だがしかし、と踏み止まるのはやはり、その貪欲な快楽主義的態度が消費のサイクルを異常なまでに高め、商品の粗製濫造を促し、やがては文化をいわば進化の袋小路に追い込んでしまうのではないかという懸念があるからに他ならない*6。動物的な快楽よりも読解の快楽に重きを置き、文化を娯楽として消費してしまうことに抵抗を感じてしまう限り、ぼくは動物化にできる限り抵抗を示し続けることだろう。
*1:人間の複雑性や多面性によって構築される作品は一定上の読解力が求められる時点で、それだけのコストを払おうとしない人間、もしくは読解力を持たない人間には受容されないため、より多くの購買者を求めるには、できる限り単純な方が良い。
*2:東さん本人が、上記のように考えているかどうかはぼくは知らない。繰り返すが、これは東さんの著作を読んでぼくなりに考えたことだ。
*3:もちろん、全ての文化に対してここまでステレオタイプな人はそれほど多くないのかも知れない。例えば音楽に関してはかなりマニアックだが他のジャンルに関しては上記の例の程度とか、たとえ音楽に詳しいといってもヒップ・ホップだけで、他の音楽ジャンルに関してはやはりテレビなどで流れるヒット曲程度の知識しかないといったような偏りがある場合が多数なのかもしれない。だが、人間は今や趣味の分布が類似している者同士で共同体を作っているため、印象批評では鏡像的な自己投影に惑わされてしまって、大規模な集団における実状は統計をとらないと解らないだろう。ちなみに当然、ぼくの周りには何かにこだわりが強い人が多い。
*4:ワールドカップや阪神優勝の際の集団的熱狂やジャパニーズ・ヒップ・ホップにおけるナショナリズム、あるいは癒し系ブームはその実例だ。
*5:人間の価値判断の基準は様々だが、認知のシステムや感情の構造は、皆ほとんど同じだからだ。
*6:良く似た生物であるオウムガイが生き残っているにも関わらず、かつて繁栄を極めたアンモナイトが絶滅してしまったように。