自分の立ち位置を再確認した日。

 先日、所用で8つ歳下の現代系オタの人々と吉祥寺で会いまして、色々話したのですが、それにつけても思い知らされたのが俺様ちゃんのヨゴレっぷり! やべーわ、俺! まずいまずいまずいまずいだって「うーんどうしようここは一発、端からかましとかないとヤバいよなー、よーしMai:lishに連れて行こう」ってどんなかましかたしてるんだよ、オーレッ! ていうか「いいからまず一発かましとけ、オリャッ!」ていう発想がヤバい。
 ぼくは萌えが勃興してきた時は反射的に「これむかつく! 薄いヌルいつまんない!」とか思ってたんだけど、その後、考え方を改めました。今でもやはりギャルゲーや萌えマンガ/アニメの大半はぼくから見るとピンと来ないのですが*1、それでもそれを心の底から好きな人達にとって否定される謂われはないわけだし、そういった思い込みによって、萌え系であっても面白いと思えるような作品があることに気がつかないのは勿体無いと思います。
 何でこんなことを意識するようになったかというと、次のような思いがあるからです。
 ぼくが音楽に目覚めた大きなきっかけの一つが80年代末にセックス・ピストルズを聴いたことで、それは当時起こりつつあったバンドブームと連動してピストルズが再評価されていたという時代の雰囲気の支配下にあるものでした。だから70年代にリアルタイムでパンク・ムーブメントを経験した人々から見れば、バンドブームの時に現れたジャパニーズ・パンク・ムーブメントなんて鼻で笑うようなもの、あるいは往年のオリジナル・パンクバンド達を思い起こさせるノスタルジーでしかないのかも知れません。しかし、中学〜高校生だったぼくにとって、それらは本当にリアルなものでした。確かにぼくが

勝手にしやがれ!!

勝手にしやがれ!!

を初めて聴いた年の10年以上前にピストルズは解散していましたが、そのアルバムはそれまでさほど音楽には興味のない中学生に音楽の素晴らしさを教えてくれた、今までに聴いたことのない、「全く新しい音楽」だったわけです。*2
 だからやっぱり、素で萌え系が好きな人達には、ぼくには見えていないものが見えているのだと思うし、萌え以前/以後では明らかに違うシステムが駆動しているというのは直感的にも論理的にもわかるので、自分と違う年代の人々には敬意を払いつつも、自分の立ち位置は明確にした上で、お互いに有意義な交流をできればいいなぁ、と。
 などということを考えながら、彼らの現代系オタらしい会話に妙に感心してみたりしました。京極夏彦さんの
陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず) (講談社ノベルス)

陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず) (講談社ノベルス)

について話してる時に「俺、アドルノ好きだからハイデガーはあまり……」みないな会話とか(笑)。
 しかしこの分だと、カリスマはてなダイアラーどころか、はてなコミュニティとかはてな文化とかが本当に出来そうだ(もう出来てるといっていいのかも)。はてな発の小説家とかエッセイストとか評論家とかライターとか編集者とか。ぼくも仕事欲しいなぁ(切実)。

*1:ぼくがオタクとして素で現役だったのは格ゲーまでだし。

*2:当時、ジョン・ライドンのロンドン訛りの英語が一言も聴き取れなくて、「これ、本当に英語?」とか思ってました(微笑)。まぁ、初めて意識的に聴いた洋楽だし、ヒアリングもろくに出来なかったので当然ですけど、歌詞が聴き取れないなりに、中学生なりに危険で暴力的で衝動的でフリーキーなものを感じてました。当時のぼくはロック・ミュージックといえばヘヴィ・メタルかBOφWYみたいなものだろうと思っていて、それらのイメージがどうにも馴染めなかったのに、パンクは音楽もファッションも何もかもが格好良く思えました。パンクの存在を知った直後にピストルズのガーゼTシャツが原宿で売ってると知って、すぐさま買いにいったもんなぁ。しかも練馬から原宿まで自転車で(笑)。道もよく知らないから「とりあえず青梅街道をまっすぐ行って、山手線にぶつかったら右に行けば着くだろう」だって。ばっかじゃねーの。挙げ句、中学生でお金がないから往復の電車賃を節約するために自転車で行ったのに、クソ暑い真夏日だったもんでジュースがぶ飲みしてたら電車賃より高くついちゃってトホホ。