メディアの向こうの世界。

 確か90年代の中頃からだったと思うが、テレビのバラエティ番組で、笑いどころをテロップで出したり、出演者のボケに画面上に文字やイラストなどを出してツッコミを入れたり(「めちゃめちゃイケてる」など)、リアクションを誇張するためにCGでエフェクトを加えたり(「うたばん。」など)という演出が多用されるようになった。個人的にはこういう演出は積極的に嫌いだ。これは視聴率至上主義のテレビ文化らしい発想によるもので、この手法によって、以下の3つの変化が生じたものと思われる。
 第一に、受け手の読解力が低くても理解できるようになった代わりに、解釈の範囲が狭められてしまったこと。
 第二に、出演者に求められるものの変化(いわゆる芸よりも「キャラクター」と痙攣的な瞬発力)。
 第三に、「タレント」の不在。
 第一の点は、少しでもバラエティ番組を観たことがあれば解ることだ。より多くの人に支持されることこそが至上の価値とされるあまり、受け手の読解力を育てることもせず、皆、構造上似たようなものばかりになってしまったのだ。
 第二の点も、同様に納得してもらえると思う。ダウンタウン以降、テレビでコント番組をやることはかなり難しくなった。もはやコントや漫才などをメインにしたお笑い番組は激減し、代わりに台頭したのが以下の3つの形式である。

1.お笑い芸人が司会を務める歌番組。
例:「HEYHEYHEY MUSIC CHAMP」「うたばん。」
2.多数のゲストを集めてあるテーマの元にトークを進行し、司会者が適宜ゲストに話題を振る形式のトーク番組。
例:「踊る!さんま御殿」「ディスカバ!99」
3:芸能人がスポーツやゲームをしたり、普段やらないことに挑戦する様を延々と見せる番組。
例:「とんねるずの皆さんのおかげでした。」「学校へ行こう!」の「みのりかわ学園高校」のコーナー、「めちゃめちゃイケてる」の「爆走!数取団」のコーナー、「堂本剛の正直しんどい

 上記の番組の特色から、今、テレビ番組で出演者に求められる者が2つあることがわかる。一つは、司会者のふりなどに対して、誰にでも笑えるようなコメントや動作や表情などを反射的にできる能力が求められていることである。*1もう一つはキャラクターがはっきりしていることである。しかもテレビ界でいう「キャラクター」とは、おそろしく単純な確定記述のことである。例えば明石家さんまだったら「出っ歯でしゃべりまくる女好きなお笑い芸人」というのが彼に求められているキャラクターではないだろうか。
 本来人間は多面的な存在だし、いつも同じ行動原理で動いているわけではない。明石家さんまにしても、プライベートでは時には落ち込むことや一言も話したくないこともあるだろう。しかし、テレビ番組は明石家さんまのそんな部分を求めていない。明石家さんまが売れつづける限り、彼は一度定着した自分のキャラを変えることは容易ではない筈だ。
 そして第三に、今の芸能人の多くは、テレビというメディア以外で、どれだけ魅力や才能を発揮できるだろうか、と思えるからだ。一体、テロップなどの演出や「踊る! さんま御殿」に代表されるトーク番組として洗練された形式に助けられた芸能人達が、どこかの劇場やイベントスペースなどでコントや漫才やトークショーを行った場合、どれだけ観客を満足させられるだろうか。彼らの多くはもはやテレビ番組というもう一つの世界の中でしか生きられない。だが、視聴者をひきつける技術を極限まで洗練されたテレビ番組は、出演者は番組を構成する要素に過ぎないのだから、人気がなくなったらいくらでも他のタレントに交換できるのである。*2
 テレビ番組の現状に対する上記のような結論から、連想するものがある。この日記の過去ログをある程度ご覧になった方は既に予想されていることと思うが、それは東浩紀さんが提唱する社会のデータベース化に伴う、大衆の動物化である。表現作品の構成要素が因数分解のように要素に還元でき*3、しかもそれを作り手も受け手も当然のように自覚している状態、これこそが現代大衆文化の特質ではないだろうか。*4

 まぁ、そんなわけであまりテレビは観ないんですよ。小中学生の時は本当にアホかっていうくらい観てましたけどね。おかげで80年代はぼくの中では永久に不滅ですよ。上ではあんなこと書いたけど、明石家さんまはやはりすごいと思う。だって彼はテレビ無しでコントやトークショーやっても面白いし、テロップとかCGとか使わないし、今のテレビ界で彼の代役はいないしね。
 あと、東浩紀さんが『ファウスト』の連載で提唱した「メタリアル・フィクション」という概念だけど、これってアニメ・マンガ・ゲーム・ライトノベルだけでなく、あらゆるメディアに応用できるんじゃないかなぁ。少なくとも物語メディアを歴史的に語る時は使わない手はないでしょう。よーし、ぼくちんもやるぞー!(何をだ)

*1:岡村隆史などはその代表例だろう。

*2:もちろん司会などのメインの出演者とアシスタントなどではその存在価値は異なる。また、各番組の形式自体も飽きられてきたら新コーナーなどを導入して梃入れが図られ、いくらリニューアルしてもどうにもならなかったら打ち切りとなるわけだから、やはり解体・再構築・交換可能な要素に過ぎない。

*3:固有性のない状態、あるいは剰余、ノイズが限りなく少ない状態といってもいい。

*4:私見では、確かに昔から大衆文化は引用と模倣から成り立っていたが、ここまで形式性に回収され、その形式と要素を作り手と受け手が供に自覚している時代はなかったと思う。それは様様なメディアにおいて、今日の技術的達成と情報の普及化、普遍化がなければ自覚されなかった筈だからで、その点において、データベース化は東さんが言われるように90年代前半を通じて全面化してきた現象だとぼくは認識している。この点に関する読者諸賢の客観的論拠に基づいた批判を切に願う次第である。