過去へのロマンティシズム=ノスタルジー。

 ぼくはノスタルジーがあまり好きではありません。ノスタルジーって、「今ここにない過去が過ぎ去ってしまったが故に美しい」とする考え方だと思うのですが、それが本当に良いものだったら、それは端的に今でも良いものの筈です。ぼくがセックス・ピストルズを今でも好きなのは、単にそれが今聴いても格好良いからに他なりません。だから、どんなに一時期好きだったとしても、一度飽きてしまったら、それ以降は自主的には聴く気は起こりません。自分の過去に対して変な思い入れを持ったり、自分の青春時代を特権化したり、まして新しいムーブメントや文化を「どうせ自分達の時代の焼き直しに決まってる」などと決めつけるのは愚の骨頂です。
 同様に、「ダメなものこそがいい」という類の言い方もピンときません。「ダメなものはダメなんだからやっぱりダメなんじゃん? それがもし良いと感じるんだったら、それはいくら他人が認めなくても良いと感じる人にとっては良いものなんだから、良いというべきでしょう」とか思います。
 ぼくは文化や趣味について、基本的には以上のように考えていますが、過去の文化について考察すること全てを否定するわけではありません。過去の文化について考察することで、現在の自分にとって何か有意義な視点が得られるなら、それは良いことだと思います。
 そういう意味では、88〜96年くらいまでの東京のサブカルチャーについて、一度突きつめて考える必要があるな。つまり、自分にとっての音楽/同人誌/アニメ/マンガ/ゲーム(TRPG含む)/小説、特に大槻ケンヂ石野卓球について。