表現世界の評価基準。

*以下に記すのは、ぼくの価値観に基づくものであって、万人に普遍的ではないことを、ここに銘記する。

 ぼくは、表現作品を享受するとき、その評価基準となるのはたった一つで、それは作品の内的な世界と自分とのシンクロ率だ。自分とのシンクロ率が高い作品ほど、良い作品で、低ければ悪い作品といえる。
 ただ、そのシンクロのしかたも二種類あって、砂(id:sandworks)さんの言葉を一部借りて表現すれば、分身共感的同一化と、未知世界への誘惑をもたらす同一化の二つがある。
 前者は、登場人物がまるで自分のことのように感じられる同一化で、その中で起こるあらゆる現象、喜怒哀楽を共感できるような作品のこと。後者は、自分がそれまでに体験したことがなかったけど、その未知の可能性を知る喜び(=恐怖=嫌悪……)を示してくれる作品のこと。砂さんが批判する窃視的同一化は、後者を男が自分の都合の良いように使うことと言って良いと思う。
 ぼくにとって、前者のハイエンドは太宰治さんで、後者のハイエンドは楳図かずおさん。ちなみに、太宰治は男流(ヒステリー)文学のハイエンドで、最近のセカイ系だとかゼロの波の新人たちの作品は皆、太宰の縮小再生産+アニメ/マンガ/ゲーム的想像力によって成り立っているという仮説なんだけど……皆はどう?

とりあえず、ぼくの仮説が疑わしいと思う人は太宰の「ダス・ゲマイネ」、「道化の華」、「人間失格」、「斜陽」、「走れメロス」あたりを読んでみてください。

9月24日 追記

 上記の考え方を改めてみた。
 まず、個々の登場人物・状景・語り・作品内世界の四つに分けるとする。その分類に対して既知共感的同一化と未知誘惑的同一化がそれぞれ分けられると考える。これらを組み合わせると、8つの分類が出来る。
 とりあえずここまで。