オタクの東浩紀批判。

 id:hhosono:050119に書いたことの補足。
 オタクはパロディを好む。これは様々な要因によるものだが、オリジナリティへの断念と、全ての事象に対して斜に構え、ノリつつ覚め、覚めつつノることを是とするオタクの(そして新人類の)ダンディズムによるところが大きい。また、ある作品を別の文脈に変換する作業に伴う超越性による満足感もあるだろう。この点については竹熊健太郎さんの名著

私とハルマゲドン (ちくま文庫)

私とハルマゲドン (ちくま文庫)

が参考になる。
 さて、東浩紀id:hazuma)さんは(出典元を忘れてしまったのだが)「日本の文化で、アメリカにおけるハッカーカルチャーに相当するものはオタク系文化だ」ということを言っていた。これは重要な指摘であると同時に、東さんがオタクに嫌われる原因にも関係していると思う。
 オタクは、とかく自己卑下しがちである。しかし、その自己卑下は他人に指摘される前に自分で自分の短所をさらけ出すことでか弱い実存を護る行為でしかなく、オタクの自己意識は実はかなり高い位置に置かれている。つまりは否認なわけだ。
 そうした超越性に支えられた自意識、仲間意識の産物である(と自分達で思っている)OTAKU文化が東浩紀という他者によってハイカルチャーという別の文脈に変換されることこそが、オタクが東浩紀を嫌う最大の要因なのではないか。
 オタクはプレおたく世代の作品や非オタクの作品を何度もパロディ化してきた。多くの作家はオタクによるパロディに「自分の作品を汚された」とか「創作に伴う苦労を経ずして作品を作ろうとしている」という嫌悪感を露にしたが、上記のような超越的自意識を持つオタクはそれ故に益々パロディに熱中してきた。
 しかし、東浩紀という更なる超越的他者にパロディ化、ハッキングされた時にはそれまでの否認的態度から一気に否定的態度に転じた。
 東さんへのオタクからの批判の全てが上記のようなものとは言わないが、こうした枠組みで捉えうるものは少なくないだろう。*1
 また、東さんは東大法学部に現役合格し、弱冠20歳の若さで柄谷行人浅田彰に認められ、「ソルジェニーツィン試論」で華々しくデビューし、博士論文が新潮社から『存在論的、郵便的』という書名で発行され、三島賞候補になるなど、エリート・コースを歩んできた言論人である。
 この事はオタクだけでなく、東浩紀を批判する人の感情的反発を惹起している。*2つまり、東浩紀をめぐる批判は、文系男子の階級闘争という側面があるわけだ。

 昨日の日記とも関係するが、ぼくは東浩紀信者ではない。ただ、彼の状況把握のための図式化能力と批評力は相応の評価がされるべきだと思っているし、大枠では東さんの理論モデルに同意する、というか「使える」と思っているだけだ。*3

 以上、東浩紀を巡る議論に関しての覚書でした。

*1:例えば唐沢俊一氏とか。

*2:もちろん、全員というわけではないし、人によって程度差もあるだろう。また、こうした感情的反発はオタクよりもハイカルチャーに属する人、あるいはオタクでも所謂「現代系オタ」に多いだろう。

*3:著作で言えば、

郵便的不安たち

郵便的不安たち

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

で、特に『郵便的不安たち』の「棲み分ける批評 」、「郵便的不安たち:『存在論的、郵便的』からより遠くへ 」、「ソルジェニーツィン試論:確率の手触り」を初めて読んだ時の衝撃は今でも鮮明に覚えている