ポップ・カルチャーに囲まれるということ。

 20世紀のメディア技術の発達は、めざましいものだった。
 写真、映画、音楽(蓄音機、アナログ・ディスク、アナログ・テープ、CD、MDなどなど)、ラジオ、テレビ、ビデオデッキ、レーザーディスク、DVD、印刷技術、電話およびネットワーク技術、そしてコンピュータなどの登場と発展の歴史は文化を確実に変えた。
 ごく大雑把に、そしてさしたる根拠もなくいうならば、ポップカルチャーは、70年代にその大枠としてのジャンルの整備が完了し、以降はそれが細分化していったように思う。
 音楽についていえば、60年代にビートルズが出現し、ユース・カルチャーとしての音楽=ロック・ミュージックという流れが生まれ、以降、プログレッシブ・ロックハード・ロックヘヴィ・メタルパンク・ロック、ニュー・ウェーブ、テクノ・ポップなどが生まれた。
 「パンク・ロック」という語はセックス・ピストルズのために生まれたが、そこから遡行してニューヨーク・パンクが見出されたし、以降もパンク・バンドは数多く生まれた。そしていまやパンクは単なる概念に過ぎず、他の音楽ジャンルと並列されているし、パンクのサブカテゴリも数多くある。
 現在、活動中のパンク・バンドで、ピストルズ(や他の数多くのバンド)にはない、「新しい何か」を持っているバンドは、そう多くはない。しかし、そうしたピストルズ(や他の数多くのバンド)のコピー・バンドに多くの需要がある。
 個人的な体験で言えば、ぼくは中学生のときにセックス・ピストルズとYMOで音楽に目覚めた。その後、ブルー・ハーツを初めて聴いたときに「これってピストルズの真似じゃん」と思った。しかしその後、「今、ブルー・ハーツというバンドが存在していて、日本語でパンクをやっているという、その事が重要なのだ」と思った。
 また、ぼくはワープという概念を「ドラえもん」で知った。

地球幼年期の終わり (創元推理文庫)

地球幼年期の終わり (創元推理文庫)

を読むよりも前に藤子・F・藤雄の「地球老年期の終わり」を読んだ。
 これが、シミュラークルということなのだと思う。個人的な体験を何処まで普遍化できるか判らないが、ぼくより後の世代は確率的に間違いなく、ぼくの世代よりも「引用元への遡及」の意識が薄くなっていると思う。*1
 大衆文化において、「今、ここ」というのは大事なことだ。ピストルズが解散してしまったとき、次に誰がピストルズ的な位置を占めるのか、内容が(ほとんど)同じでも、新装版という形で、何度でも過去の名作が出版されるのか、そこに「起源」を問うても意味はない。
 言語に起源を問うことは、かなり難しい作業である。「宮」(みや)という語が「御+屋」に「尊」(みこと)という語が「御+事または言」に分解でき、大和言葉において「御」(み)が尊敬または大いなる力を意味する語だとして、では何故、「み」という言葉がそうした意味を持つに至ったかは、おそらく永遠の謎だろう。
 言語の起源に関する謎と同じことが文化においても起きつつあるのかも知れない。

*1:その一方でだからこそ、引用元への遡及の欲望が強い人もいるのだろうけれど。