伊藤剛さんのはてな日記id:goito-mineral:20050128#p1で「アイデンティティ」という言葉について語られている。

アイデンティティ」という概念は、論者によって少々異なる意味に使われている。ぼくは「この身体に、この”私”が宿っているということが、違和感なく実感されていること」をアイデンティティの確立、というほどの意味で理解しているが、どうも、一般的にはこうした理解は少数派のようだ。どうも、「自分が共同体に帰属し、その共同体内部での役割を違和感なく引き受けている状態」をもって、アイデンティティの確立とする見方ってのがあるようだ。あまり考えたくないけれど、こっちの意味のほうが多数派らしい。
(中略)
 あえて挑発的な物言いをするけれど、ぼくはこの意味で「アイデンティティ」を語るひと(たいがいは男性だな)を、基本的に信用していない。バカだとすら思う。理由は、そういうひとは「私が私であること」という固有性から目を逸らしているからだ。「じぶん」を愛するということから逃げているといってもいい。

 「私」である前に日本国民であれ、「私」である前に共産主義者であれ、「私」である前にオタクであれ‥‥なんでもいいが、「私」である前に共同体の成員であれ、という形で、「私」から問題をズラすことができるわけだ。


 でもね、オレはそんなのズルだろ、と思ってしまうんですよ。

 まず「じぶん」であれ、という命題の重さから逃げただけだろあんたたち、と思うわけだ。

 はてなキーワードでも説明されているように、「アイデンティティ」という概念はエリクソンによって提唱されたものだ。その点から考えると、アイデンティティという語の本来の意味は、伊藤さんの理解している意味で良いのだと思うが、そこから「社会や共同体との関係性の調和」という意味にも使われるようになったのだろう。*1
 ぼくは心情的には伊藤さんの意見に賛成だが、「アイデンティティ」という概念に対して、「この身体に、この”私”が宿っているということが、違和感なく実感されていること」が意識されずに「自分が共同体に帰属し、その共同体内部での役割を違和感なく引き受けている状態」が多数派になってしまうのは止むを得ないことだとも思う。
 何故なら、伊藤さんの言う「この身体に、この”私”が宿っているということが、違和感なく実感されていること」としてのアイデンティティに気づき、それについて深く考えることのできる人は、哲学的感度の高い人か、病弱その他の理由によって、常に身体性を意識せざるをえない人だけで、そんな人は少数派だろうからだ。
 この辺の問題については、ものごころついた時からぼんやり考えていたのだが、学生のときに永井均さんの

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

を読んでから、真剣に考えるようになった。この本と
私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

はこうした問題に対する哲学的な追究の成果だが、おそらく、世の中の大多数の人にとって、永井さんのこうした哲学する態度は理解できないだろう。*2そして「社会」とは、こうした問いを忘却したところにしか成立しないのだろうとも思う。

*1:http://www7.ocn.ne.jp/~ooguro/css06.htm このページを読むと、エリクソンアイデンティティという概念を構想した時点で社会や共同体との関係性が勘案されているようにも思える。……エリクソンの著作に当たるか。

*2:ぼくは理解できないからと言って、バカだとは思わないけれど。