『陰摩羅鬼の瑕』の瑕。
ぼくは京極夏彦さんの作品の中で、京極堂が憑き物落としをする一連の作品を個人的に「憑き物落としシリーズ」と読んでいる。拝み屋という民俗的行為とミステリが交錯するところこそ、それらの作品の醍醐味であるからだ。
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ぼくは60年代以降の日本の小説をあまり読まない。ましてや現役作家の作品など、ほとんど読まない。そんな乏しい読書体験の中で、
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しかし最新作
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ミステリには倒叙法という形式がある。これは最初に犯人やそのトリックを書いてしまい、探偵役がそれを見破っていく過程を描いたもので、「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」などが有名である。ぼくはこの形式があまり好きではない。やはり、最後にあっと言わせるものをぼくは虚構に求めているからだ。
しかし、上記のような問題はぼくが『陰摩羅鬼の瑕』をつまらないと感じた最大の要因ではないようにも思った。そこで最近、再読してその思いは確信に変わった。
以降、『陰摩羅鬼の瑕』に関するあからさまなネタばれが述べられています。大抵の読者はぼく同様に冒頭で犯人とトリックがすぐに解ると思いますが、念のため、『陰摩羅鬼の瑕』を未読の方でネタばれを嫌う人は、以下の文はご覧にならないことをお薦めします。
伯爵が犯人、または犯行に深く関わっているであろうこと、そして伯爵が「死」の概念を誤解していることは、新書版『陰摩羅鬼の瑕』の20ページ上段、
伯爵は嗚咽を上げるように私の言葉を遮った。
「将に妻は――私の愛する妻は、貴方が仰っている通りに無くなってしまいました」
「そう。亡くなられてしまった。お気の毒です。それについては言葉もありません」
という下りを読んだ時点で、「無」と「亡」という字の概念の差異を知っている人なら誰でも解ることだろう。*1しかしそれは、この作品にとって瑕ではない。本当の瑕は、伯爵が京極堂が説明するように、「死」を「非存在」として捉えていたということが論理的に在りえない点にある。
考えてみて欲しい。伯爵は「死」について色々考えてきた人だ。加えて多くの書籍を読み、京極堂が賞賛するほどに聡明な人でもある。だとしたら探偵小説を読んで「殺人」という概念が理解できない場合、辞書などの書籍で調べるとか、周囲の人間に尋ねることはしなかったのだろうか。
例えば『大辞林』で「死」について調べると、
死ぬこと。生物の生命活動が終止すること。宗教的には彼岸に赴くことをいい、魂の更生ないしは転生を意味する。
⇔生
とある。伯爵は生命活動の終止を「死」と認識せず、自分にとって存在者が「非存在」になることを「死」と考えていたわけだが、探偵小説を読んでそこで描かれている「死」の描写を不可解に思い、人に尋ねたり書籍で調べた時点で不可解に思い、更に調べ、考察することをしなかったのだろうか。小説を読む限り、伯爵は永い間、そうしてきたのだろうが、それでも「死」をあのように誤解することがありうるだろうか。
伯爵にとっての家族は、物語の時点では既に死んでしまった父と、父によって剥製にされた母と、自分が殺害した花嫁たちと、夥しい量の鳥類の剥製たちであった。それらが無くなってしまったことを伯爵が「死」だと認識しているのはいい。しかし、「死」は全ての生物に平等に訪れるということを、伯爵は知っていたはずである。だとしたら、使用人や家庭教師が解雇され、自分の館を出て行った時点で「あの人は死んでしまった」と認識していたはずだ。そして他の使用人たちに「あの人は死んでしまったね」とか「あの人は無くなってしまったね」と言う機会はなかったのだろうか。
伯爵は「成長」という概念もよく解っていなかった人でもある。新書版『陰摩羅鬼の瑕』の51〜52ページでも「成長」に関する会話がされている。それなのに、その時点で「生きる」ということの自分の認識に疑問を持ち、「成長」あるいは「生」という概念について議論をすることを続けないのは、伯爵の性格などから考えて、ありえないのではないか。
ここまで、伯爵が京極堂と関口によって指摘されるまで「生」と「死」の概念を誤認していることは在りえないと述べてきた。だが、その確率が全くないとは実は言い切れない。何故か。先に書いたように館を出て行った人々を伯爵が「あの人は死んでしまったね」と言う機会があり、その発言を聞いた人が不可解に思っても、伯爵という地位と浮世離れした人柄から、それを言い出せないということが考えられる。それに「生」や「死」を正しく認識している人にとって、そのこと自体はあまりにも自明なことでありながら、それを概念として、言葉だけで説明することは難しいということにもよる。*2だから本作品での京極堂の憑き物落としは有効なのだ。
それでもやはり、ぼくは伯爵の認識の「瑕」が形成される過程を暗示する描写に論理的な説得力が欠けていると考える。「現実的」ではない、「論理的」な説得力だ。
かつて
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しかし、『陰摩羅鬼の瑕』には、ぼくは納得が行かない。それこそが『陰摩羅鬼の瑕』であり、この作品の趣向はそこにこそあると言えば、そうも言えるのだけれど。
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