偶然が表現を支配する。

 昨日、夜道を歩いている時にi riverで音楽を聴いていた。その時、シャッフルモードにしていたんだけど、筋少の「少女の王国」(その前の曲名は失念)のイントロがかかった瞬間に腰が砕け、鳥肌が立った。id:Bang-choが前に言ってたんだけど、シャッフルで聴いているときに、たまに良いつなぎになる時がある。これこそMP3プレイヤーの醍醐味。でも2〜3曲つながれば良いほうで、ずっと良い選曲になった試しはまだない。
 シャッフルモードはDJと比較すると面白い。DJは単に曲を順番にかけるだけでなく、スクラッチイコライジングなど様々なテクニックを駆使するので同一視はできないが、様々な曲を多様な幅を持たせつつ一つの流れを作る/作りうるという点では一緒である。
 シャッフルモードで音楽を聴くとき、自分で曲順を選択していないので、DJのミックスを聴いている感じに近い部分がある。だからこそ、偶然良いつなぎになったときに心を打たれるのだ。
 もし、仮にシャッフルモードで聴いているときに良い選曲が続いたとき、それは偶然の(あるいは神の)「センス」が良いとも言える。更にそれが頻繁に起こる人がいたとしたら、それは「偶然」という良いDJに恵まれたのか、それとも聴き手であるにも関わらず、その人が良いDJなのか。
 偶然とは、環境、能力など、様々な条件がそれぞれに異なる個人の集団において、そうした条件と関係のない領域を概念と言える。この定義を踏まえ、上述のことを考えると、偶然と個人の関係――偶然が個人に「保持」されるものなのか、それとも無関係なのかという命題を改めて考えられる。*1

*1:そもそも「偶然」は「保持」とか「関係」などとはまったく違うものなのではないか、とか。