三次創作の可能性

 id:hhosono:20031114で第二回文学フリマのレポートを書いたのですが、何人かの方々には好評だったようで、反応があるというのは文章を公表している者にとって、とても嬉しいことです。
 さて、ぼくの書いたレポに対して、id:keigo2001さんが以下のような感想(id:keigo2001:20031114#p3)を書いてくれました。id:keigo2001さんに感謝。

その中で触れられていた三次創作の話題が個人的には烈しく気になるんですが、

(中略)

えー、どういう感じだったのか、その辺が烈しく気になります。「オリジナル/コピー/シミュラークルという概念区分」とか「作家性を強化するものでしかない」とかで想像するしかないってことだと思うんですが……むー、気になるー。

 この話題は、打ち上げの中でもっとも盛り上がった話題だったのですが、ぼくのレポの中では実際にはどういった議論があったのかが説明されていなかったので、解りにくかったのだと思います。というわけで、ほとんど消えかけている記憶を元に、この議論の経過を再現してみようと思います。

1.文学フリマで頒布したコピー誌『Cluster』に掲載されたぼくの文章「アニメ/マンガ/ゲーム空間のセクシュアリティ――「やおい」と「男性向け」の非対称性の原因についての一考察」に以下のような一節があった。

通常、商業作品を基に作られた二次創作の設定などを更に流用して同人作品を製作する同人作家は、まず存在しないといってもよく(筆者はこの一五年の間に男性向け同人誌を中心にやおい、ギャグパロなど、少なく見積もって三〇〇〇冊以上の同人誌に目を通してきたが、「パロディ同人誌のパロディ同人誌」は一度も読んだ記憶はないし、そういう同人誌が存在するという話を聴いたことも一度もない)、たとえオリジナルであっても同人作品=非商業作品が二次創作化されることは非常に稀である。

2.これに対する前島くん(id:cherry-3d)の意見:細野さんは「パロディ同人誌のパロディ同人誌はあり得ない」といったけど、ぼくは三次創作の可能性ってあると思うんですよ!

3.id:cherry-3dの意見:パロディのパロディが作家性に対する有効な批判になり、作家信仰を打破するのでは?

4.それに対する皆の意見:オリジナル/パロディの区分と商業/同人誌の区分を混同してはいけない。商業作品でもパロディ的な作品は数多くあるし、寧ろ最近のオタク系作品はパロディ的な作品設定がデフォで、それどころかパロディ的な引用意識すら喪失したから萌え要素のようなものが到来したのでは?

5.細野の意見:自分の記述はあくまで「パロディ同人誌のパロディ同人誌はあり得ない」であって、同人誌というメディアを使ってパロディを楽しむ時の意識の問題だから、id:cherry-3dの問題意識とは違う。

6.id:hitomisiriingの意見:id:cherry-3dはオリジナル信仰を打破したいとか云ってるけど、オリジナル/コピー/シミュラークルという概念区分から考えると、id:cherry-3dの考えは、作家性を強化するものでしかないと思うんだけど。

7.id:saCLAの意見:(皆の意見に「その通り」といいながら尚も三次創作について語るid:cherry-3dに対して)id:cherry-3dの身振りは否認だよね。

8.id:cherry-3d轟沈(笑)。

 こう書いてみると、id:cherry-3dがかなりアレな人(笑)に思えるかもしれないが(ごめんね、id:cherry-3d)、実際、あの場はid:cherry-3dによってかなり盛り上がったのだった。
 それは、現代に生きる僕たちの文化のほとんどが複製技術を基盤に作られていることに由来する、作家性に対する懐疑に強い関心が持たれているからであり、更には、如何に人が作家という「神話」に強い影響を受けているかを、あの議論に参加していた各人が内省的に再確認したからだと思う。
 ちなみに、ぼくは「作家」という存在をとても尊敬している。しかし、「作家」とは紛れもなく西洋近代社会が生み出した存在なのだから、*1現代社会でそれがどれだけ有効なのかは改めて考える必要がある。あるいはこうも言えるだろう。資本を大きな前提に工学化し、情報化した現代の消費文化にはアウラを作り出す存在としての作家は(ほとんど)存在しないが、代わりに「複製的な」作家が登場した――アウラという唯一神はその人格を失い、汎神論的な存在に変容したのだ、と。*2


 かつてニーチェが「神は死んだ」と高らかに宣言して以来、「○×は死んだ」的な言い方が世に蔓延した。*3作家もそのように語られる代表例の一つである。しかし、ニーチェ以降に脳天気に「○×は死んだ」と云う人達は皆、ニーチェの言葉の真の偉大さを理解せず、二重に誤解しているのだと思う――一つは、西洋近代社会において、「神は死んだ」と史上初めて宣言することの意味*4を理解せず、単にその科白の格好良さに踊らされているという点において、もう一つは、そもそも(キリスト教的な)神は、定義上、生死を超越した存在である筈という点において。*5

 いずれにせよ、今やあらゆる言説は容易にある一定の枠組みに回収されてしまう。だから、その回路の中で発言することで発生する「意味」と「効果」の両方について、考えるべきなのかも知れない。

上記の記述は、ぼくの既に曖昧な記憶に基づくものなので、ツッコミ&補足をお願いします。>あの場にいた方々

*1:ここでいう「作家」は勿論、"author"の翻訳語としての作家ね。禅宗のいう「作家」ではなく。

*2:「作家」や「アウラ」といった言葉をベンヤミンの用法に従って「代替不可能性」や「一回性」に基づいてとらえる立場を堅持するなら、「今や作家は死んだ」といってもいいのかもしれない。しかし、「アウラ」はともかく、「作家」という言葉はベンヤミンの文脈を参照しなくても広く流通しているのだから、現代的な「作家」という言葉の定義はそれを踏まえて更新されても良いと思う。

*3:かつてジョン・ライドン a.k.a.セックス・ピストルズも「ロックは死んだ」と云ったが、それは当時のパンク・ムーブメントの中での戦略的な発言としてはそれなりに当を得ていて、彼が他のパンク・ミュージシャンよりも優秀だったという一証左ではあるが、その発言すらも一過性の運動に回収され、無意味に消費されていったという点で評価できない。

*4:ある絶対的存在の無意味さを「史上初めて」極めて明解に指摘したことの意味は大きい。彼が歴史上初めてそのような指摘をしたことで、彼以降に出現した類似的な指摘が完璧に陳腐になってしまうくらい、この指摘は巨大な迫力を持っている。

*5:だからニーチェの言葉は二通りに解釈できる。一つは「神はmortalな存在になってしまった」という宣言。もう一つは「神は元々そういうものだった」という宣言。いずれにせよ、ニーチェの言葉を超えた神性も想定できるのだが。